『羊と鋼の森』

話題の映画『羊と鋼の森』、そろそろ終わる頃かと思って観てきました。

この作品、とりわけ調律師さんたちには好評のようで、中には普段映画館などまったく行かないような方までわざわざ足を運ばれていますし、しかも一様に好印象(中には絶賛)を得ているようです。
本業の方々からこれだけ評価されるということは、専門的側面だけでも成功といえるのではないかと思います。

マロニエ君は混雑を嫌って、夜の最終回に行ったところ、優に100人以上は入りそうなシアターに観客はわずか5人という貸し切り状態でした。

全体の印象としては、あの原作を映画にすれば概ねこういうことになるのだろうというもの。
調律師という仕事はピアノ芸術の根底を支える崇高なものでありながら、この職業がときおり出くわす理不尽、正しく評価され理解されることが稀な、孤独と誠実の交錯、ときどき訪れるほのかな喜び、そしてまた厳しい現実へと引き戻される様をよく表していたように思います。

個人的な映画の好みでいうと、ぽつんぽつんとしか台詞のない心情描写風の仕立ては、あまり得意ではありませんでしたが、ピアノ好きとしては見逃せないものだから、いちおう楽しむことはできました。
ただ、映画は読書と違って、2時間の中で役者を動かして表現するもので、映画としての構成やテンポが重要なファクターとなり、いったん始まれば監督はじめ作り手の運転するバスに乗せられることになり、その運びや見せ方が見る側の波長や感性に合うかどうか、それにつきるような気がします。

驚いたのは、リアリティの追求なのか映像上の演出なのか、とにかく画面がストレスになるほど暗く、これには閉口しました。
ビデオにでもなったら違うのか、それともあの暗さやピントの甘さは意図されたものなのか、いずれにしろ普段からテレビやパソコンで明るく鮮明な画面に慣らされている身には、この暗さはきつかった。

暗いといえば、それが良かった部分もありました。
調律師達が所属する楽器店の様子で、誇張して云えばニューヨークの下町みたいなレンガ造りで、相当の年月を経てきたらしい建物。通りから数段上がったところに入口があって、中は暗いけれど重厚な空気が漂っていて、いろいろなピアノが無造作に置かれているあの雰囲気はいいなぁと思いました。
できることならピアノはあのような店で取り扱ってほしいもので、今どきのやたら明るくモダンな展示スペース、ガラスと照明でピカピカした店舗などはまるでブティックか車のショールームみたいで文化のかけらもなく、ピアノを見る場所としては本質的に似合っていないと思うのです。
映画の中のあの店は、ある意味、マロニエ君のピアノ店はこうあってほしいという、ひとつの理想に近いものでした。

また、制作の裏事情は知らないけれど、いち鑑賞者としての率直な印象としては、出てくるピアノのどれもこれもがYAMAHA一色であったのはあまりにも不自然で、唯一の例外は外国人ピアニストのコンサートで「我々が触れられないピアノ」としてほんのちょっと出てきたホールのピアノだけ。

まるで日本で普通に使われているピアノはヤマハのみ!といわんばかりで、これはちょっとやり過ぎというか、カワイ系の人達は見ていて愉快ではないだろうと思いました。上記のように調律師の世界や画面の暗さなど、かなりのリアルさに迫っているように見せながら、出てくるピアノはすべてこの一社に統一というのはいかにも仕組まれた印象が拭えず、スクリーンの中にまでトップ企業の抗えないパワーが介入しているようでした。

そのいっぽう、いくつかの音の中には、ヤマハの音の魅力みたいなものを感じる瞬間があり、インパクトのある強めのアタック音からでてくる直線的で生々しい音は、これまであまり意識しなかったヤマハの良さかもしれないという新鮮さがありました。
もちろん映画の音声は別撮りであるのは常識で、よほど入念に調整され、更には電子技術で化粧された特別な音かもしれませんが。

意外だったのは、グランドに関して言えばヤマハの相当古い時代のピアノが多く、比較的新しかったのは姉妹の自宅のピアノのみで、これもまたリアリティなのか。

リアリティで忘れてはならないのは調律師役の俳優陣の職人的なこまかい動き。
みなさんこの映画のために特別な訓練をされたものと見え、かなり忠実に調律師の所作ができているのは驚きでした。とくに主役の山崎賢人さんと三浦友和さんは、調律師特有のいろんな手つき手さばき、ちょっとした視線の向け方、さらには彼らが漂わせる独特の雰囲気までよく研究されていて、それを演技の中で自然に表現できるとは、俳優というのは大したものだなぁと感心させられました。

いずれにしろ、きわめて珍しい映画であったことは間違いありません。