若手の問題

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。