テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。
それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。
たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。
音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。
あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。
いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。
世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。
同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。
メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。
たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。
物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。
なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。