小菅優

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。