イケメン◯◯

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。