楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。
楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。
もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。
どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。
昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。
少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。
ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。
曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。
生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。
青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。
これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。
マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。