自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!
たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。
平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。
録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。
また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。
そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。
二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。
ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。
自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。
曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。
しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。
これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。