月の光

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。