マルセル・メイエ

時代の流れに反抗し(ているわけでもないけど)、あくまで音源はCDにこだわり続けているマロニエ君です。

最近購入したCDで圧倒的に素晴らしく感激ひとしおだったのは、20世紀の前半から中頃にかけて活躍したフランスのマルセル・メイエのスタジオ録音集成という17枚からなるボックスセット。

ネットにあるCDの説明によれば、1897-1958の生涯。
パリ音楽院でマルグリット・ロンやコルトーの教えを受け16歳で卒業。
ラヴェルやドビュッシーの多くの曲の初演者であり、サティやフランス6人組、コクトーやピカソ、ディアギレフなどと音楽以外の芸術家とも深い関わりがあったらしく、フランスの最も輝く時代とともに生きたピアニスト。

つい先日、ギーゼキングのバッハでぶったまげて何日間もそればかり聴いて過ごしていたというのに、それをつい横にやってしまうような魅力ある素晴らしいメイエのピアノに驚きのため息が止まりません。
実をいうと17枚を聴くのにひと月ちかくかかりました。
なぜならあまりに素晴らしすぎて、繰り返し聴くものだから、なかなか次のCDに交換ということになりません。

しかも、17枚とはいっても、すべてCD収録時間ギリギリの80分近い収録となっているので、LP時代でいうと倍近い枚数になっていたものだろうと思われます。
それが、こうしてCDの小さくて簡素な箱に入れられ、一枚あたり定価でも200円ちょっとで買えるのですから、大変な時代になったものです。

この人のピアノを聴いていて、演奏の最も中心をなしているものはなにかといえば、それはセンスだと思いました。
ただ、センスという言葉で誤解されたくないのは、センスというとすぐにファッション的な意味合いや、繊細でオシャレ的な意味合いで受け取られることが多いのですが、そうではなく、演奏スタンスというか価値感という点で、しっかりしたスタイルの見切りがついている、あるいは楽譜を音楽的言語にいかに美しくデフォルメできるか…というふうに思っていただけると幸いです。

あまり枝葉末節にこだわらず、音楽の本質、開始から発展し収束に向かって終りを迎える個々の作品の短い生涯を再現するにあたって、最も大事にすべきものはなにかということを、この人の演奏はよく示してくれるように思います。
なので、もしメイエの演奏を聴いて何か影響を受けるとすると、それは直接の解釈とかアーティキュレーションではなく、音楽を自分流にどう捉えるかという本質であり、自分ならピアノの前に座ってどんな演奏を旨とするか、それをシンプルに考えるヒントにあるということではないかと思います。

現代の凡庸な演奏家の多くは、楽譜に正確に、完璧に弾けているというアピールばかりを詰め込みすぎて、肝心の「音楽」が本来の精彩を失い、聴き心地の悪いものになっている演奏で溢れています。
場所々々ではいかにも立派なように聴こえるけれど、全体として通すと詩もなければドラマもない、要するに何の魅力もない、音楽の神様が一瞥もくれないような演奏。
その真逆にあるものがメイエの演奏にはぎっしり凝縮されているわけです。

必要以上にもったいぶるようなことはせず、表現表情も過度にならず、それ以上は聴き手の感性に委ねられた、聴き手の感性を呼び起こす演奏なんですね。直接的にエグい表現などはまったくなく、どちらかというと毅然として澄みわたっている。
そのなんとも微妙なところが最高なんです。

技巧もそのまま現代でも第一線で通用するほど見事であるけれど、まったくそれを見せつけるような自慢や強調はゼロ。
ましてや楽譜に対する忠実ぶりを正義のように押し付けてくるわけでもないし、戦前のピアニストありがちな恣意的で独善的なものとも見事なまでに区別された、楽譜に批准した知的な演奏であることは衝撃でした。

どれを聴いても活気に満ち、音楽があるがままのように生きている。
昔はこういう人が自分の生きるべき場所に生きることができ、なすべきことがなされたこと、そんな当たり前が素晴らしいと思いました。
それは時代の力でもあり、まわりにいた多くの芸術家たちとの相乗作用もあって、このような演奏を生み出し支える大きな養分になったことでしょう。

今のピアニストは、ピュアな芸術家として生きるには、時代がなかなかその味方をしてくれないようです。
ひたすら技術と暗記のトレーニングに明け暮れ、あとはコンクールというレースに出てせっせと営業活動するなんて…それを外から軽蔑するのは簡単ですが、気の毒なこととも思います。