ダルベルトとトラーゼ

BSのクラシック倶楽部アラカルトは、おそらくは個々の演奏家のプログラムから、55分の番組で入りきれなかった演奏を2人づつまとめて放送されるもののようです。
そんな中から、印象に残ったものを。

【ミシェル・ダルベルト】
昨年11月の浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルから、ショパンの幻想曲、ドビュッシーの映像第1集。
いきなりですが、マロニエ君は昔から趣味じゃない人。
この人のピアノはCDを聴いても実演に接しても同じで、その甘いマスクとは裏腹に演奏はどちらかというと無骨、ニュアンスとかデリカシーというものがあまり感じられません。
近年の若い人のように、そつなくきれいに弾くだけの無個性無感動な演奏もどうかとは思うけれど、その点でいうとダルベルトは明らかに昔の世代の自分流を押し通すピアニストでしょう。

フランスのピアニストにときおり見かけられるタイプで、迎合的ではないところはいいけれど、細部にまで神経の行き届いた演奏ではなく、何を聴いても同じ調子で、気持ちが乗れないまま終わってしまいます。
もし違っていたら失礼だけれど、ただ弾きたいものを自分のスタイルで押し通してタイプでしょうけど、そのスタイルがよくわからずこの人なりの聴き所がどこなのかはいまだに掴めません。

ピアノはドビュッシーを意識して準備されたのか、珍しくベヒシュタインでした。
D-280かD-282かはわからないけれど、おそらく新しいものを使う日本のことだから282なのだろうと推測。

D-282というのはマロニエ君の理解の及ばぬピアノで、ベヒシュタインらしい特徴を残しつつ、現代のステージでも通用するコンサートピアノとしてのパワーその他を盛り込んでいるものと想像されますが、どうにもよくわかりません。

ベヒシュタインのカタログを見ていると、ひとつひとつの音の透明感や分離の良さ、和音になったときのハーモニーの美しさなどが特徴だということが随所に謳われているけれど、ショパンの幻想曲のような作品で音数が多く激しい曲調の部分にさしかかると、むしろ音が暴れ出し、あげくに混濁してしまうよう聞こえてしまい、ますます首をひねってしまう始末。

その点では、映像の第一曲のような緩やかな曲では発音のインパクトによる独特な効果があるし、この日は弾かれなかったけれど、たとえばベートーヴェンなどがベヒシュタインに似合うのは、むしろその特性ゆえだろうと思います。
ベートーヴェンは美しく澄んだトーンの音楽ではなく、苦悩や混沌の中から精神の高みへと到達するようなところに聞き所があるようなものだから、楽器も清濁併せ持ったものあるほうがふさわしい。
なので、はじめからスマートに整った響きのスタインウェイなどで弾かれても、もうひとつベートーヴェンらしく聞こえない場合がありますが、ベヒシュタインならばその野性味を駆使して自然に表現できるような気がします。

【アレクサンドル・トラーゼ】
プロコフィエフのソナタ第7番。
これまでに聴いたこともないような、瓦礫がそこらに荒々しくころがっているような、作品が産み落とされた時代の空気がそのままに伝わってくるような演奏でした。
とくに「戦争ソナタ」という名にふさわしく、グロテスクで、生臭く、容赦ない炸裂が何度でも繰り返され、これは本来こういう曲だったのか!と思わせられる瞬間がなんども到来するあたり、思わず聴き入ってしまいました。
以前のこの人のコンサートの様子には???と思うところもあったけれど、ツボにハマればすごい人なのだということも納得。

現代のピアニストの誰もが、この曲をロシアの技巧的なピアノ作品として、ピアニズム主導でスタイリッシュにまとめ上げて弾いてしまうことに対する、一種の警鐘ともとれるようなごつごつしたプロコフィエフで、久々に面白いものが聴けた気がします。
もしかするとまとめるどころか、散乱していなくてはいけない音楽なのかもしれないと思いました。

トラーゼは恰幅もよく、打鍵する力が強いのか、ピアノを鳴らす力も平均的なピアニストより一枚上をいっており、とくに強打ではなくても、すべての一音一音が太くて芯があり、今どきはそれひとつでも印象的。

むろん、大きな音を出せるから良いなどと言うつもりは毛頭ないけれど、現代の多くの若手ピアニストがガラス瓶で育った植物みたいな細い音しか出さなくなったし、昔の人のように全身全霊をこめて楽器に思いのたけをぶつけるというような迫力がありません。
どちらが本来のピアノ演奏として正しいことかどうかはさておいて、聴く側は、節度ある知的で美しい演奏も魅力だけど、時には駆け上るような燃焼感であるとか渾身のパフォーマンスというのは期待するのであって、これは理屈じゃなく本能の問題では。

多くの若手は、ミスをせず、無理をせず、推奨テキストと解釈にしたがって、よく動く指を武器に、ただきれいで正確なだけの演奏を目指すようになってしまい、即興性や冒険心を失っていることには危機感を覚えます。

他の音楽ジャンルではエネルギッシュな興奮に酔いしれることを良しとするいっぽうで、クラシックの演奏だけが精度や解釈ばかりにこだわって、あげく小さな細工物のようになってしまうことに、さすがにもう飽き飽きしてきました。
今どきは何かあると「命の大切さ」ということが叫ばれますが、音楽にも命の大切さは大事であるし、それが我々が音楽を楽しむ際の一丁目一番地ではないかと思うんですけどね。

トラーゼの演奏は、ただ単に面白いだけでなく、時流に対する反抗の精神も秘められているようでした。