非文化

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。