むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。
そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。
Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。
A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。
ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。
なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。
特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。
それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。
彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。
今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。
アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。
ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。