BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。
ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。
この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペインを強調した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。
この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中で揺れるわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはい来ません。
同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。
この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも多くの人が弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかな手さばきで弾いておけば、おのずと曲のフォルムは立ち上がりさすがとなりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。
全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを処理しきれず表面だけを通過してしまいます。
ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。
単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンのスタイルが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えてもたちまち雰囲気が崩れてしまうのは、もしかしたらモーツァルト以上で気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張で固くこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。
ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、初見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最後に行き着く難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。
アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界でたっぷりと満たしていて、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。