iPhoneかわいい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。


昨年12月、ついにスマホを買いました。

その理由は単純で、この先もガラケーで押し通すほどのサムライでもなく、iPadをカバンに忍ばせて持ち歩くのが重くて面倒くさくなったことと、スマホは今や時代の主役となって久しく、もはや時勢には逆らえないというあたりでしょうか。

知人のアドバイスもかなり後押しになったし、キャッシュレス、カメラ/動画、LINE等の通信手段、ナビゲーション、その他使いおおせないほどのありとあらゆるアプリがあふれ、これを世界の老若男女の大半が持っているわけだからすごいもんだと思います。

思い起こせば、むかしは21世紀になったら誰もが気軽に月旅行に行けたり、車は空を飛んでいるといった無邪気な空想をしていましたが、それはそうならなかったけれど、スマホはある意味それに匹敵する技術革新でしょうね。

世の中の仕組みも、スマホがあることを前提としており、そうではない人のことなど置き去って前進している。
誰もがあの小さな端末を握りしめ、生活の大部分を依存/支配されており、マロニエ君はべつに何かの活動家でもないし、もはやそれを使わない理由もないと思い至りました。

その気になれば、iPadでも似たようなことはできないことではないようですが、サイズも機能のうちで、いちいちあの重い板切れを取り出すのではその気になりません。
バスと普通車ぐらいの差があり、そのための使いにくさと煩わしさがあり、やはりiPadは「小さくない」し「重い」。

マロニエ君が使っていたのは、正しくはiPad mini なので、いくぶん小さく軽いほうでしたが、それでもカバンはズシッと重くなるし、独特の塊感があり長時間になると手や肩は結構な負担になるなど、それを前提としたカバンを持つ必要さえありました。

出かける際も、あれこれの支度に加えて、iPadはカバンに、携帯をポケットに!というのが忘れてはならない必須確認事項に組み込まれ、そうまでしてさんざん持ち歩いたあげくに一度も使わなかったなんてこともザラでした。

昔なら、それでもネット環境がかばんで持ち歩けるなんて夢のようで、そんな程度の重さなんてぜんぜん厭わなかったけれど、時代は常に「当たり前を更新」してしまい、いまではこれが苦痛として迫ってきていたのです。

巷で流行りのキャッシュレスやポイント/クーポンのたぐいも、レジでカバンの中をゴソゴソやってiPadを取り出して画面を開くという手順はけっこうな集中(というか緊迫!)を強いられて煩わしく、下手をすると普通に財布から現金で払ったほうが、どれだけ単純で楽かと思うことも。

ガラケー&iPadという組み合わせは4年間お世話になったスタイルでしたが、iPadとiPhoneは、電話機能を有無を除いてほとんど違いはないと思っていたけれど、実際は「似て非なるもの」でした。
しかもそれは、機能というより、気持ちの上での違いが大きいことも大きな発見でした。

いまごろやっとスマホを手にして、その感動をこうしてブログの文章に綴ることじたい滑稽のそしりを免れませんが、まあそれが事実なんだから仕方がありません。

というわけで、ついに手にしたiPhoneですが、これが想像以上に便利だしiPadにはなかった緊密性があり、長年2つに分かれていたものが小さく1つに集約できただけなのに、このほっこり感はなんだろう!?という感じ。

さらに言うなら、おかしなことに、なんというか独特の可愛さがあって、小さな相棒というか、まるで頼れる秘書を常に何人も引き連れているようで、これはiPadにはない気分でした。

かくて、4年間行動を共にした2台のiPadは自宅内のパソコンのない部屋用の中間端末へと降格されて、いつもテーブルの上にべたんと鍋敷きのようにへばりついています。
まるでホールに新しいピアノが来て、前のは練習やリハーサル用になるように。