努力という才能

知人からの情報を得て面白い番組を見ました。

音楽やピアノにまったく関心のなかった海苔漁師の52歳の男性が、たまたまテレビでフジコ・ヘミングのラ・カンパネラに出会ったことがきっかけでスイッチが入り、自分もラ・カンパネラを弾きたい!という一大決心をしてピアノを開始。
その7年後、ついにはフジコ・ヘミング本人の前で演奏を果たすというもの。

奥さんがピアノの先生で、家にはグランドピアノがある環境ではあったようですが、「音大出の私でも弾けないのに、あんたに弾けるはずがない!」と一蹴されるも、まったく意思はゆるがず練習開始。
それまで、ピアノの経験は一切なく、酒をのんでは演歌を歌うぐらいなもので、楽譜もまるで読めないという、まさにゼロからのスタートだったとか。

練習方法は、タブレット端末のアプリなのか、音が画面内の鍵盤を光らせるようなものを見ながら、すべてを指の動きに叩き込んで覚えるというやり方で、番組によればまったくの独学というですから信じられません。

さらに驚くのはその尋常ならざる熱意と猛練習ぶり。
なんと毎日8時間、これを7年間、仕事以外のすべてを犠牲にして、全エネルギーをピアノの練習につぎ込み、ついにはこのラ・カンパネラをマスターしたというのですから、開いた口がふさがらないとはこの事です。

ピアノの常識でいうと、50過ぎてまったくの白紙からピアノに触り、いきなりラ・カンパネラという跳躍の多い技巧曲に挑んで、それを7年かかって成し遂げるということは、モチベーションの持続など、いろいろな意味からほぼあり得ないことですが、それをやってのけたこの方の驚異的な熱意と実行力たるや尊敬に値するもの。
とりわけ練習嫌いのマロニエ君には「練習とは、かくも尊いものなのか!!!」と考えさせられました。

それに比べたら、フジコ・ヘミングの前で演奏したかしないかは、個人的には大して重要とは思わず、これは要はテレビ番組の企画だと思いますが、それが企画として成立したのも、この方の奮励努力の末に奇跡的な結果を生み出したことが呼び寄せたことだと思うのです。

長年漁師をされてきたという浅黒く逞しい太い指が、慎重に鍵盤の上に置かれて演奏開始。
あの長い曲を少しもごまかすことなく、すべての動きをひたすら反復し、それを記憶し、自分の体に叩き込むことで立派に最後まで弾き通すということを、まぎれもない現実として多くの人が目撃したわけです。

このカンパネラを聴きながら、一途に努力を継続できることは、それ自体がひとつの才能だと思いました。
脇目もふらず、なにがあろうと、ひたすら努力を続けるのは、強靭な意志力が必要だけど、ただそれだけでできることでもなく、それが長年にわたりへこたれることなく続けられるという、ご当人の適性とかメンタルを含めて、さまざまな条件が揃わなくてはならず、だからこそ「才能の一種」だと思うのです。

マロニエ君はそれがゼロなぶん、この方がよけい輝いて見えました。

それともうひとつ触れないわけにはいかないことが。
それは、この方のラ・カンパネラには、非常にオーソドックスな良さがあり、曲は違和感なく恰幅があり、はっきりと音として作品の姿が見えたこと。
教師であれ、ピアノ愛好家であれ、やたら叩きまくるか、音楽性のかけらもない変な節まわしや意味不明のリズムやアクセントなど、指はどうにか動いても、それがなまじ偉大な作曲家の作品であるぶん冒涜的となり、聞くのはかなりしんどいものがほとんど。
そこには、曲への理解不足、第一級の演奏に対する無知と無関心、音楽経験の浅さ、さらにはこうした技巧曲を弾けるという自慢ばかりが横行している中、この方のカンパネラはなんとまっとうなバランスが保たれていたことか!
ここがマロニエ君にとって一番の驚きだったといってもいいと思います。

殆どの人は、この方がラ・カンパネラを弾けるようになったという、要は、きわめて困難な指の運動と記憶の作業をやり遂げたことに感嘆するかもしれませんが、それはもちろんそうだけれども、出てくる音楽がきわめて正常なものであったことはさらに瞠目させられた次第。

おそらく、フジコ・ヘミングという技術はそれほどではないけれど、とろみのあるずしっとした演奏を繰り返し聴かれたことで、知らず知らずのうちにその特徴までもが、この方の中にしっかり染み込んで根を下ろしていたのではないかと思います。
ピアノは練習しているのに、名演を聴かない(かりに聞いて技術的上手さだけ)人というのがあまりに多く、音楽はまず自分の練習時間と同等かそれ以上に聴きこみ、惚れ込まなければダメだということの証左でもあったように思います。