HJ LIM

今年はベートーヴェンの生誕250年ということで、コンサートやCDなど、ベートーヴェンイヤーを意識したものも少なくないようです。

もはや、昔のような盛り上がりはないけれど、それでもベートーヴェンという巨大な存在ゆえか、それなりの注目度はあるのかも知れませんが。

コンサートなどもベートーヴェンイヤーにちなんだ企画やプログラミングになっているのでしょうし、CDもこの年にかこつけてベートーヴェンを録音発売(あるいは再販)というのはちょくちょく見かけます。

マロニエ君は今これが流行りと聞くとついソッポを向きたくなるほうで、世間がそれで注目したからといって素直に自分も歩調を合わせるといったことはしませんが、それでも、ベートーヴェンを耳にするチャンスが増えることで、そこから自分なりの聴きたいCDなどを引っ張り出してくるというようなことはあります。

実は、ベートーヴェンイヤーとは関係なく、昨年の秋ぐらいからすっかり彼の弦楽四重奏曲にハマっていたのですが、それはまた後日に書こうと思います。

その他のジャンルでは、思いつくままに聴いてはみるものの、これまでに繰り返し聴いたCDというのは、個々の演奏にある固有のちょっとした表情とか音のバランス、息遣いなど、演奏の指紋のように耳に残っているため、次がどうなると記憶にあるせいで、新鮮味がなくやめてしまうことがしばしばあります。
もちろん、ベートーヴェンともなると曲自体もあまりに耳慣れしてしまっていることが、あらたな楽しみとしては問題になることも。

ピアノソナタも長年聴いているし、下手ながら自分でも弾いたりしていると、さすがに飽きてくるもので、いまさらいずれかのボックスセットを取り出してしみじみ聴いてみようというところまでは達しないことが多いのも事実。

そんなとき、CD棚で別の探しものをしているときにふと目に入ったのがHJ LIMのソナタ集(中期の少ソナタを除く30曲)でした。
韓国の女性で、コンクールが嫌いというピアニスト。
購入したときは、ちょっとデフォルメがきつすぎるように感じたことと、ピアノの音(ヤマハCFX)があまり好きではないため、ひととおり聴いただけで放っていたものでした。

かなり鮮烈な演奏だった記憶はあったので、久しぶりに音を出してみると、これがかなり聴き応えのある素晴らしい演奏で驚きました。
奔放で恐れがなく、自分の感じるところに正直で、生きもの臭いぐらいな生命感が漲っています。
それが決して独りよがりでもなく、説得力のある演奏として成立しているし、さらに驚くべきは、HJ LIMというきわめて個性的なピアニストの演奏でありながら、ベートーヴェンをも常に感じるという点で、これはかなり稀なものではないかと思います。

伸縮自在、大きく掴んでは解決へと落としこむ、あれこれと疑義を発生させつつ最後にピタッと収支を合わせる、それでいて次がどうなるか予想がつかないスリルがいつもある。
演奏というものの魅力はまさにこういうところにあるのであって、世に横行する作品重視とクオリティばかりを前面に立てて安心するのは、演奏家としての自信の無さからくる逃げ道のように思います。
自分の考えを声にする自信がないから、当り障りのないニュートラルなスタンスにしておく安全策。

ベートーヴェンらしさとは何か、それが何かはわかりません。
しかし、いかにも楽譜を隅々まで検討しました、資料も読みました、自筆譜も見て検討しました、そうした研究や考慮を重ねた末にある演奏というものは、ある種の押し付けとか、あちこちに変なアクセントがついてみたりと、せっかくだけど何かが違うように思います。
よく言われることですが、ベートーヴェンは即興演奏の名人であった由。

苦難とこだわりの人生を送り、その作品は推敲に推敲を重ねたというけれども、その人物が存命中は即興の名人だったというのも有名ですね。
激情家で、現代でいうならクレーマーみたいな人物であったことを考えると、学級肌の学術発表のような演奏よりも、このHJ LIMのような一瞬一瞬の感興で掴みとったものをズバズバと音にしていくほうが、よほどベートーヴェンのに叶っているのではないかと思うのです。
とりわけハンマークラヴィア(とくに第4楽章)をあれだけの勢いで一心不乱に弾けるのは大したもの。

現代の一流とされる民主的な指揮者が、機能的なオーケストラを振って、全てがシナリオ通りに運んでいく、どこかウソっぽくて一向に炎のあがらないベートーヴェンよりは、いまだにフルトヴェングラーの雑味も含みながら正味で聴かせる演奏に満足と感銘を覚えるのは、理にかなったことかもしれません。