再録の必要と不必要

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。