第3番以降

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。