いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。
中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。
自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。
いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。
たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。
現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。
演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。
また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。
ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。
本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。
音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。
それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。
小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。
音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。
尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。