ピアノの近代史-2

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。