先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。
海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。
思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。
今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。
いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。
技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。
芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。
すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。
地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。
聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。