演奏環境

最近しきりに思うこと。
それは、クラシックのコンサートというのはオーケストラのような規模は別として、ソロから室内楽ぐらいまでの規模の演奏会をホールでやるということに、漠然とした疑問というか、違和感みたいなものを感じはじめるようになりました。

もしマロニエ君が全て自由にやれるとしたら、どっちにしろクラシックは大勢の人がこぞってやってくるようなジャンルではないのだから、少なくとも器楽の演奏会はホールを抜けだして、19世紀のスタイルに回帰してもいいのではないかと妄想してみたりしています。

ショパンの時代のように、広さはよくわからないけれどもサロンがあって、ピアノがあって、そこを来場者は適当に椅子をおいて、演奏者をゆるやかに取り囲むようにして演奏を聴く、こういうスタイルに憧れます。

できれば椅子も疲れない、肘掛けがあるような少しまともなものがいいし、それを真珠のネックレスみたいにきれいに並べるのではなく、ある程度ランダムに置いて、微調整は各人がやるぐらいの「ゆるさ」があるとどんなにいいかと思います。
人数も、100人からせいぜい200人程度といった数でいいのでは?

マロニエ君が嫌なのは、多くのホールは左右がくっついたシートに押し込められ、他人と肩を寄せ合うようにして着座し、肘掛けさえ一本をさりげなくお隣さんと奪い合うようにして使わざるを得ない、あれ。
おまけに、体中に神経を張り詰め、動きも最小にし、声はおろか咳払いひとつでも遠慮がちにしなくてはならず、暗い周りに対し照明の当たったステージを凝視するのは目が非常に疲れるし、これを事実上2時間つづけるのは、相当の疲労というか、心身ともにストレスまみれになります。

おまけに、肝心の演奏が気にいらなかったり、広すぎる会場と、仕組まれた過度な残響のせいで、音はぼやけて細かいニュアンスなど何も伝わってこない。

それなら、残響などほとんど配慮されていなかった昔の多目的ホールのほうがよほどマシな場合は少なくなく、そんな環境で、テクニックにしか興味のないようなピアニストのドライな演奏を聴かされても、当然のように「音楽の喜び」とは程遠いものになるのは必定です。

ピアニストがこういう演奏になるのにはさまざまな要因があり、テクニックという能力の競争、時代の空気、コンクール中心の価値観、聴衆の質の低下など、色いろあるとは思いますが、そのひとつとしてこのようなホール環境もあるのではないかと思います。

広すぎる空間、高いステージの上で照明を当てられての演奏は、聴衆とのコンタクトというよりは、孤独な晒し者という要因のほうが強く、そんな中で、深い愛情や味わいや芸術性を最優先した演奏など、できなくて当たり前という気がします。
聴衆も大事な点はわからないのに、ミスタッチだけはチェックされるとあっては、無味乾燥な印刷みたいな演奏になるのも、わからなくはありません。

というわけで、もっと小さな会場での親密さのある演奏環境が整えば、弾くほうも聴くほうも、はるかに質の高い幸福なものになるようなきがするのですが、それはマロニエ君の幻想でしょうか?
「いい演奏は聴衆が育てるもの」という言葉がむかしあったけれど、それは今も変わらないと思うし、演奏環境も同じじゃないかと思うこの頃です。