事実上の終焉かも

前回からの、だらだらした続き。

コロナ禍には関係なく、ホールという空間でのコンサートに、近年に疑問を抱くようになってきたという、これはたんなるマロニエ君個人の印象です。

昔のように巨匠といわれる人やスター級の演奏家が君臨する時代ではなくなり、多少の差はあるとしても全体としてみれば平均化されたピアニストが大半。
訓練法が発達し、合理的に弾くという能力が向上したおかげで、予定されたプログラムをただ予定通りに「普通に、小粒に、コンクール風に」に弾いて済ませることはできるようにはなったけど、その先がない…。
くわえてYouTubeやネット配信などで、音楽や演奏にアクセスする方法もめまぐるしく変わってくると、これまで当たり前と思っていたホールでの演奏会も、質的な変化やなにやらで以前のような意味があるのかどうかさえ疑わしい。

とりわけコンクールで淘汰されてきた人は、難曲でも何でも普通に破綻なくクリアに弾けて当たり前の時代に、わざわざチケットを買ってホールに出掛けて行っても、もはやドキドキ感はなく、コンサートが特別なものではなくなりました。
もう一歩踏み込んでいうなら、今どきのピアニストの演奏は、一期一会の演奏に全身全霊を込めているというより、有名人が本を出版したり各地を講演して回っているような、技能職という色合いが透けて見えるようで、いわば腰の低い通俗人で、芸術家という気がしません。

そもそも、東京などの一部の演奏会を除けば、ほかでは露骨に手抜きの演奏したり、下手な人はやっぱり下手なだけだったりで、いずれにしろ演奏を通じて、何か極められた特別なものに触れることは難しいのです。
そんなものを見て聴くためにわざわざホールに出かけて行っても、喜びや充実とは興奮とは結びつかないものであることは自明で、こうなるのは当然だろうと思います。


昔の巨匠の中には一週間でも10日でも、毎回異なる曲目でリサイタルができるぐらいの膨大なレパートリーがあったとも聞きますが、公開演奏会とは、ほんらい、それぐらいの余力のある人がやるものではないかとも思います。

プログラムに関しては、たとえば半分だけ決めておいて、あとはその時の気分でいろいろ聴かせてくれるようなピアニストと、それが不自然でない規模の会場と雰囲気…、そんなものがあればどんなにいいだろうというようなことを考えたりします。
それもホールのコンサートのように「さあ、聴かせていただきましょう」といった大仰なものでなく、もっとほぐれた雰囲気があればと思うし、音楽って本来そういうものじゃないかと思うようになってきたこの頃です。

そうはいっても、万が一つにも、そういうスタイルが流行ったら、現代の抜け目ないピアニスト達はそれっとばかりにその情報を掴み、陰でシナリオを周到に準備して、それを演技的にやるぐらいのことは朝飯前で、よけいわざとらしくなるだけかもしれませんが。

いずれにしろ、仮にコロナ問題がないとしても、1000人も2000人も入るような巨大ホールで、はるか遠いステージ上の演奏を、左右の方と肩寄せ合って窮屈な体勢で聴いたところで、それがなに?としか思えなくなりました。
現代は何事にもビジネスや利益が絡む社会なのでホール規模のコンサートが当たり前のようになっていますが、やはりあれば本来アメリカのショービジネスのサイズで、クラシック音楽には合致していないように思います。
はるか遠くのステージから、ろくなニュアンスも伝えない残響音の放射で、およそ音楽的とも思えない不明瞭な音を延々2時間も浴びせられるのは、目に合わないメガネをかけて写真や映像を延々と見せられるようなもの。
そもそも残響というのは、主たる音が確固としてあって、脇役でしかないはずのもの。

コンサートの帰り道、なんとも言い難い後味の悪さに苛まれ、ひどい疲れと欲求不満のほうがはるかに大きいのは、実はそうした実際的な苦痛が多々あって、精神と肉体は正直だからだろうと思います。