普段、家でラジオを聞くことはなく、自宅にはその装置さえありません。
べつに特別な理由はないのだけれど、昔からラジオを聞くという習慣が、なぜか身につかなかったからだと思います。
したがって、ラジオを耳にするのは車の中でCDにちょっと飽きたとき、ちょっとスイッチを入れてみるぐらいで、まれに気分を変えてNHK-FMのクラシックは聴くことがある…という程度です。
いつだったか番組名もわからないけれど、夜、なにげなくラジオに切り替えたらミケランジェリの特集のようなものが放送されており、途中から目的地に着くまでの30分ぐらい聴きました。
なぜかマロニエ君は、昔からミケランジェリはとてつもないピアニストだとは思うものの、まるで荘重なフレスコ画でも見ているみたいだし、不気味なほどひんやりした感じがして、好みから云うと進んで聴きたい人ではありませんでした。
一度だけ、実演を聴くチャンスがあったのですが、会場のNHKホールに行くと、妙に閑散としてなんだかあたりの様子がおかしく、入口近くに立てかけられた小さな掲示板に目をやると、今日の演奏会は本人の体調不良でキャンセルになった由の文字が並んでました。
いくら好みのピアニストではないとはいえ、やはりあれほどの世紀のピアニストです。
ついにその生演奏に接するという高ぶる期待で出かけて行ったらキャンセルで、ホールの建物にも入ることなくすごすごと引き返す時のあのやりきれない気持は今もって忘れられません。
当日、NHKのラジオではキャンセルの告知をしていたそうですが、もちろん知らずに会場まで行ったのでした。
表向き体調不良というようなことが書かれていても、ミケランジェリの場合、到底それを鵜呑みにする気にはなれませんでした。
楽器の問題か、あるいは、演奏会をやるような気分にはなれなかったという、そういったことだろうと思ったし、この人の演奏会に足を運ぶ以上、キャンセルのリスクは覚悟すべきだと承知ではあったけれど、いざ自分がその状況に立たされると、やっぱりやるせないような、行き場のない感情がふつふつと湧き上がってきたことも覚えています。
ずいぶん後になって知ったところでは、やはり楽器の問題だったらしいというようなことが音楽雑誌に書かれており、その尋常ならざるこだわりがミケランジェリのピアノ芸術を成立させているわけでもあるけれど、同時に彼ほどのピアニストなら、それなりの素晴らしい楽器と技術者が揃っていたことは疑いようもなく、それでも何かが気に入らずにキャンセルするということに、ある種の凄みと、バカバカしさみたいなものとが、コインの裏表みたいに感じたものです。
冒頭のラジオに話を戻すと、ミケランジェリの演奏で残っている音源にはやけに古いものや放送録音の類など、録音条件がきわめてバラバラで、出自の怪しい、聞くに堪えないようなものも数多くある印象ですが、まれに鮮明で良好な音として捉えられたものもあったりして、このとき流されたチェリビダッケとの共演でベートーヴェンの皇帝の第一楽章は、それはもうゾクッとくるようなものでした。
1969年の北欧での演奏か何かですが、演奏もさることながら、驚いたのはピアノの音。
美しい鐘の音のように鳴り響く低音、中音以上はやわらかで明晰、太字の万年筆のような優美さがあり、後年のスタインウェイのように痩せて肉の薄いキラキラ音で聴かせるものとはまるで異なる世界。
おそらくは戦後のハンブルクスタインウェイの黄金時代の楽器で、そこにさらにミケランジェリのような狂気的なこだわりが加味されると、こういう音になるんだと思いました。
ふと思ったのは、ファツィオリの目指している音ってこういうものじゃないか?…ということ。
ただし、やっぱりこの時代のスタインウェイは、素材も理念も何もかもが首尾一貫しており、本物だけが有する説得力と孤高の世界がありました。
本当にいいものには有無を言わさぬ、何か圧倒的なものがあるということを認めないわけにはいかないものでした。
この演奏から50年余、音楽を演奏する側、聴く側、いずれも本質においては何一つ進歩していない(むしろ後退)というのが率直なところ。
マロニエ君がミケランジェリを苦手とするのは、楽器そのものがもつ音の温かさと不自然なぐらいの美しさ、それに対して陶器のようにひんやり冷たい血の気のない演奏、その2つの要素の温度差があまりに激しくてついていけず、聴いていてしんどくなるからだと思います。
ちなみにポリーニは、とくに絶頂期のそれは専ら男性的なテクニックの濫費に身を委ねていれば満腹できるので、鑑賞の楽しみとしてはずっと楽ですね。