心地よい音

真夜中3時頃のNHK総合では、映像とBGMだけが流れることあり、ヨーロッパの街並みだったり、ロワールのお城だったり、どこかの美しい景色だったり。
そのなかに映像詩『やまとの季節 七十二候』というのがあって、ゆったりとしたピアノの演奏とともに、リラクゼーション的な映像が流されているのを何度か目にしました。

ときどき演奏シーンが映りますが、ここで使われているピアノはどこにあるもので、どういう経緯でこのピアノなのかは知らないけれど、それは見るからにたいそう古い、外観のデザインも違う古色蒼然たるスタイルの19世紀のものでは?と思うようなスタインウェイでした。

かなり古いことは確かですがが、これがなかなか美しい艶っぽい音なのには「へえ」と思いました。
昔のピアノの音の美しさというのは、言葉でうまく表現できませんが、そもそも根本からして違う感じがあり、過度な洗練を加えられることのない素朴な艶と美しさを感じます。

むろん、古いピアノならなんでも良くて新しいピアノはすべてダメと言うつもりはないし、そもそもマロニエ君に懐古趣味はないことをしっかりお断りした上で、先入観なしに耳に入ってくる音として、美しいものは美しいという、ただそれだけの話。

古いピアノって、周りの空気をふわっと動かすような独特の鳴り方があって、そこに温かみがあってやわらかい。自然で正味のもので、それゆえ気持ちに理屈でなしに入ってくる「何か」をもっているように思います。
何が理由でそうなるのかはわかりませんが、まるで大自然の法則に適っているような心地よさを感じます。

昔のピアノは、木材やフェルトなど天然素材の質、あるいは自然乾燥など手間(すなわち人件費)のかけ方が格段に違うなどと言われているのはいまさらですが、ハンマーなどは消耗すれば交換もされるだろうし、それ以外にもなにか根本的な違いがあるんだろうと思います。

たとえばイメージするのは、熟練の技と勘など、創り手の技や熱意など、今では望み得ないものが詰まっているいるのではないかと思います。
こういうことをいうと、理論家の方は「そんなあやふやで根拠の無いものを良しとするのはナンセンス」、ピアノ作りには客観的に機械が勝るところも多いのも事実で、美化された理想と根性論のようなものだけではいいものはできないと言われる方も実際におられます。
たしかにそれも一理あるでしょうけど、マロニエ君は楽器作りにおいては、すべてがそうとも思えず、良い楽器になるために随所に込められた熟練者の勘や技が積み上がって到達する、摩訶不思議な領域というものは「ある」と思います。

現代のピアノは、上質の天然素材が自由に使えないだけでなく、効率重視によって直接音とは関係のないとされる部分には、人工の、あるいは人工に近いような部材が容赦なく使われているらしく、さらにハイテクによって量産家具のように寸分の狂いなく正確に組み上げられていくので、きれいだけど楽器としては失うものも少なくないはず。
たとえ人の手に委ねる部分があるにしても、それはごく一部の作業員(職人ではなく)の機械的な手作業であって、全体を統括するものはあくまでもハイテク。

あらゆる設計/製造の技術で言えば、昔とは比較するのも愚かしいほど進歩しているけれど、その技術が良いことにだけ使われているかといえばとんでもないことで、大半はコストダウンのためのごまかしなど、使う人のことを置き去りにした効率術にこそバンバン活かされ、表面だけ尤もらしくきれいに整えた製品であるのが大半です。

そんなご時世に、ピアノだけが例外であるわけがない。
一点の曇りもキズもない塗装、無機質なほど完璧に整った大小さまざまなパーツ、機械化によって成し遂げられた均一な組み上げ術、一説によると整音まで機械がやっているそうで、これで宣伝文句だけはやれ無限の表現性だの人の心だ感銘だと美辞麗句が踊っても、そうはならないのが当たり前。

一見きれいなようでも、つまるところは液晶画面のような無機質な音にも、それは出ていますね。
現代のピアノはいかにも音やタッチが揃って、さも尤もらしくしていますが、やっぱり楽器というよりは装置という感じです。
そういう音に慣らされた耳でも、やっぱり本物の音を聞くと、とても懐かしいような、ホッとするような、それでいてとても新鮮な心地になります。