スマホはあって当然?

ちょっとしたいきさつがあって、昨年12月、車を買い替えました。
これまで乗っていた趣味の車を知人が引き継いでくださることになり、新世代の車(ぜんぜん大したものじゃありませんが)を買いました。

ここで、今どきの世のトレンドというものを車を通じて知らされることに。
この車には、ラジオはかろうじてあるものの、CDプレーヤーもカーナビもなく、カープレイとかいう、自分のスマホを繋いで使ってくださいというもの。

世界のスマホの普及率がどのくらい達したのかしらないけれど、車の購入者なり運転者はスマホを持っていることが前提の作りになっており、ガラケーの人はあっさり切り捨てられています。
海外では日本以上にスマホが普及しているのか、キャッスレス化なども遥かに進んでいるという話も聞くので、菅さんが携帯料金を見直しなどと言っている裏には、もしかしたら通信環境全般で遅れた日本を他の先進国並みにという目論見もあるのかもしれません。

さて、スマホ内の音楽ソースでもって車内に音を出し、ナビゲーションもスマホの地図アプリを繋いで映し出すし、あるときなど停止中電話したら車内のスピーカーから相手の声が出てきておどろくなと、とりあえずまだよくわからないことだらけで、苦手なので試せてもおらず、試そうという意欲も薄く、すべてが後回しに。
こういうことが殊のほか苦手なマロニエ君にとって、こりゃえらいことになったと思いました。

これまで、車の中で聞く音楽は複製したCD-Rを車のプレーヤーにただ突っ込んで聴いていだけだし、家ではCDで聴くのみ、よってスマホの中に音楽は一曲も入っておらず、まずはその音源作りから始める必要に迫られました。

さしあたり、適当に選んだCDを10枚ほど自宅パソコンのiTinesに読み込ませ、それをiPhoneに移し替えることにしたわけですが、今までそんなことやったことがないので、それをどうするかだけでもあれこれ調べて、ヒイヒイいいながらなんとか移し替えはできました。
たったこれだけでも疲れる作業なので、手慣れた方からすればバカみたいに思えるでしょうけど、わからないものはわからないし、知らないものは知らないのだから仕方なく、ぜんぜん楽しくない。
ようやく車に繋いで音出しに成功したと思ったら、はじめに鳴り出したのがゴルトベルク変奏曲。

で、あの有名なアリアが終わり、当然、第一変奏がくると思っていたら、いきなり最後の変奏になり、まずこれで目が点になりました。ベートーヴェンのカルテットなどもいきなり最終楽章から鳴り出すなど、ようするに再生順がおしりからになっているわけで、こんなバカなことはないし、だいいち気持ち悪くて聴いちゃいられませんが、なぜそうなるのか、正しい順番に鳴らすにはどうしたらいいかがまたわからず、先は長そうです。

運転中に不慣れな操作をして事故るわけにもいかないので、赤信号であれこれやってみますが、便利なものって便利になるまではストレス先行で、そこに至るまでのいくつもの波を乗り越えるかどうかが問題ですね。
この手のことが得意な人が見て触れれば、なんでもパパッとたちどころに理解できて、自在に使えていいのかもしれないけれど、だれでもそうとは限らない。
たかだか運転しながら車中で音楽を流す、ただそれだけのことでも大変で、もはや人間は素直な感覚でゆったり生きていくことは許されなくなったんだなぁとしみじみ感じます。

また、スマホとの連結はもちろん、あらゆる操作が中央のタッチパネルに集約されており、エアコンの温度や風量を調整するにも、車両のこまかい設定をするにも、いちいちそのための画面を呼び出してピッピッとやらなくてはなりません。
おまけに音にしろセンサーにしろ安全機能にしろ、なんでもが「設定」ずくめで、身の回りのものがすべてこの「設定」を必要とするのは、自分流にカスタマイズできるという点ではメリットもあるのでしょうが、正直ウンザリもします。

かりに操作になれたとして、じゃあもしこの集中モニターや制御するコンピューターの大元が壊れたらどうなるのか、スマホにしてもありとあらゆる生活のための情報やコンテンツをこれひとつに集中させるのは便利かもしれないけれど、もしこれを落としたり盗まれたりしたらどうなるのか、それを考えるとゾッとします。

よく若い方が「スマホは命より大事!」と空虚な笑いとともに言い放ちますが、命より大事かどうかはともかく、それぐらいこの小さくてズシッと重い機械にすべてが握られ、依存し、支配され、精神的にも頼りきってしまうようにされてしまうのは、概ね間違いないだろうと思います。
幸いなことにマロニエ君は、そこまで依存するほど使いこなすスキルがないことが幸いして、人よりは深みにはハマらず済んでいるのかもしれませんが、それでも外出してスマホを忘れたことに気がつくと、いいしれぬ不安につつまれ、面倒くさくてもできるだけ取りに帰ります。
そうまでして、結果はまったく使わなかったなんてこともあるところをみると、やはり支配されているということでしょうね。