それから

Aさんのピアノですが、漱石の小説のタイトルみたいですが「それから」どうなったか。

素晴らしい技術者の方のご登場と尽力によって、見事に整い、鍵盤もぜんぜん軽くなって弾きやすくなったとのことで、こちらも胸をなでおろしました。

ご報告によると、実に9時間に及ぶ作業だったようで、ハンマーの弦合わせからピンの磨きなど、大半は基本に沿った点検や調整にじっくり取り組まれたようです。
本来なら新品なのだから、これらは出荷調整でなされるべきことで、それをお客さんや技術者が別途にやらなくてはいけないというのが間違っていると思いますが、それが悲しいかなここ最近の趨勢のようです。

「鍵盤に指を置いたときの頑なな衝撃に近い重さがなくなった」とのことで、これは鍵盤が下に降りる初期の動き出しが特に渋かったのだろうと思われ、こういうのは弾きにくさの典型ですね。
やはりメーカーもしくは販売店の責任として、せっかく高いお金を出して購入したお客さんを失望させることのないよう、最低限の仕事はやるべきではないかと思いますし、それが製造者・販売者たるものの良心だと思うんですけどね。
とりわけ日本はそういう部分のクオリティの優秀さが世界に認められた国だった筈だと思うのですが、それはもはや過去の話ということでしょうか?

ただ、弾きにくさもこの日を境に終わったようです。
「もう(弾くのを)止めようと思ってフタをしても、また弾きたくて、音色が聞きたくなるピアノへと変貌した」とのことで、こういう話を聞くと、その変化の様子と喜びが伝わってくるようで、人ごとながら嬉しくなります。

さらにAさんは、なかなか表現力に長けたお方のようで、タッチだけでなく、音の変化についても報告してくださいました。
マロニエ君が要約させていただきますと、
「ベヒシュタイン風の太い鳴りが、スマートな都会的な鳴りになって驚いている」
「田舎者がニューヨークに出て美容室に行ったら、今流行りのスタインウェイカットにしてもらった」
というような響きになっているとのこと。
さらに「(前回の)調律では、こんな垢抜け感、全くありませんでした」と続きます。

Aさんは、本当にピアノの良し悪しがわかるお方で、なんと適確な表現かと感心しました。
そして、すぐれた技術者さんのお仕事って、こういうことなんですよね。

多くの日本のピアノは、ベチャッとして、日本のどこにでもある街並みを思わせるような音がするものですが、それはピアノの個性とばかりは言えないものがあるらしいことは以前から感じていました。
日本人の平均的な調律師さんが調律(もしくは整音)をされると、音程などはキチンと合わせられますが、音色や響きといった部分は、鉢が大きく背の低い、いわゆる日本人体型になる場合が多く、一部の優秀な技術者さん達だけがそこを抜けだして、のびやかな美しい骨格をもつダンサーのような音になるもの。

これは、技術の問題というより音に対する感性の問題ではないかと思います。
これまでにどういうピアノに接してこられたか、どういう環境で修行をされたか、どれだけ一流の音と演奏に関心をもっているか、それを汲み取り手掛けるピアノにどこまで反映させる能力があるか、そこに尽きるのではないか。
このあたりは、やはり依頼してみないとわからないことなので、そこに調律師さん選びというのがピアノを弾く側のやっかいな問題があるように思います。

そういう意味でも、この技術者さんはとてもセンスのある方だったんでしょうね。

加えて、とてもお人柄も素晴らしい方だったそうで、そういう方と出会えたことにも喜んでおられましたが、もし、前回書いた某技術者に依頼された場合のことを考えると、すべてが逆だっただろうと思われてゾッとします。

マロニエ君の印象としては、後ろ盾のないフリーの技術者さんは、自身の腕と評判のみで勝負されており、プライドをもってお仕事される方が多いように思います(もちろんそうでない場合もありますが)。
個別の案件に対して、どこまでやるか、どれだけ手間と時間をかけるか、依頼者と自分だけで自由に決められるのも強みですね。
いっぽうメーカーや販売店に属する技術者は、あくまで会社の方針に沿って仕事をせざるを得ず、よほど理解ある会社なら別ですが、多くの場合、時間のかかる面倒な作業はできないなど、あれこれの制約に縛られておられるというような話も耳にします。

というわけで玉石混交、判断の難しい世界であることは間違いないようです。