若林顕さんの演奏をクラシック倶楽部で視聴しました。
とても良かった。
昨年2020年11月、武蔵野市民文化会館大ホールで収録されたもの(おそらく無人)で、曲目はラフマニノフの楽興の時 op.61-1と4、それにショパンの24のプレリュード。
若林さんというピアニストは、もちろん以前からお名前は知っているし、あの特徴的なヘアースタイルは藤井一興さんと並んでなかなか強い印象を残します。
その実演には一度も接したことはないものの、どちらかというと冒険を排したキチッとしたもので、いかにもあの時代の芸大出身のピアニストという印象があったぐらいで、個人的にはさほど注目の対象ではありませんでした。
たぶんCDも1枚あるかないかで、それがなんだったかも思い出せません。
記憶にあるのは、もっとお若いころ、ピアノ以外で好きなことは?という雑誌での質問に「友人とプロレス観戦に行くこと」という答えが、妙におかしいような気がしたことぐらいでした。
さて今回の演奏ですが、はじめのラフマニノフからしてオッと思わせるものがありました。
今どきの基準から言えば、指さばきがとくだん鮮やかというわけでもなく、淡々とピアノに向かっておられますが、いま聴いてみればそれなりの味はあり、なにより落ち着いた風格みたいなものが漂っていて、そういうことはすぐにこちらに伝わってくるので聴く方も少しもセカセカした気にならずに済むし、ラフマニノフを丁寧に克明に描き出していました。
若い人のように、やたらスイスイ回る指先だけで薄い演奏をするのとは違って、その演奏には滋味があり、人間の大人の自然な存在感と呼吸があって、だから曲の言わんとするところがスッと入ってくるような演奏でした。
もっとラフマニノフが聴きたいと思ったけれど、ショパンになりました。
この方はもともとショパンという雰囲気ではないようなイメージでしたが、やはりこの人のお人柄から来るものか、自然で安定して聴いていられる演奏が続き、尖った何かで惹きつけられるタイプではないけれども、肩肘張らず違和感もなく聴き続けていられるので、あらためて聴く気になれないほど耳タコになってしまった24のプレリュードを、新鮮な気分でじっくりと聴かせてもらうことができました。
全体の曲調としては、マロニエ君の印象としてはポリーニのそれが解釈のベースになっている感じがして、「ああ、あの時代を過ごしてきた人なんだなぁ」と思いました。
むろん若林さんならではの感じ方や捉え方というものがより前にあるから、自分の演奏になっているし、この方らしいオーソドックスな方向で、他と争わない心地よさが支配していましたが、それでもポリーニの作ったフォルムがこの人の深いところに沈んでいるようには思いました。
むろんポリーニのようにメカニカルではなく、ずっと柔らかでショパンを感じさせる演奏でしたが。
感心すべきは、決して楽譜を疎かにはしていないけれど、聴かせるためのメロディや要点要所がくっきりしており、正しい句読点のついた心地よい朗読のようであり、そこがベテランならではの懐の深い聴かせどころなんでしょう。
さらに要所では低音をしっかりと力強く鳴らすあたりは、聴く側にとっても納得感とメリハリがついて心地よく、どこか懐かしくもあり、こういうものは無くなってみて初めて気づく隠し味みたいなもので、楽譜に書いてあることでもなく、今の若手にはつくづくない部分だなぁと感じるところでもありました。
若い世代は本当にお上手だけれど、楽譜をスキャンして音にしているだけみたい、作品の中のここが好きだとかここに思い入れがあるという箇所が少しも感じられず、曲が耳を素通りしていくようで深い満足が得られません。
ついでながら、このときのピアノもマロニエ君の好みでした。
弾き方もあるのかもしれないし、調律にあたった技術者さんが素晴らしかったのかもしれないけれど、全体は柔らかいのに、中音から次高音はなまめかしく、低音は震えるような迫力で鳴り響く、どちらかというと1970年代までのスタインウェイを思い起こさせるようでした。
もちろん、そんな古い年代のピアノではありませんでしたが、新しめのものでもこういう個体があるのか!と思わせる雰囲気がありました。