最近は音楽不況(とりわけクラシックは深刻)のあおりで、昔のようにCDが次から次にリリースされることもなくなり、それもあってか、若いピアニストに関しては、以前に比べてかなり疎くなった気がします。
考えてみれば、マロニエ君が新しいピアニストを知る手段は、☓☓コンクールに優勝などといった情報もあるけれど、その演奏を知るには新しく出てくるCDの中から興味を覚えたものを購入し、それを繰り返し聴いてみるという流れだったようで、気がつくといつのまにやらそういう流れが止まってしまっているようです。
今どきの人は、動画やコンクールの実況配信などを見て、スポーツの応援でもするようにファンになったりするようですが、動画は同じものを何度も見ることはなく、自分の腹に入れるにはCDを買って繰り返し聞かないとわからないものがあります。
さらには、むろん実演でしかわからないものもあるでしょうね。
CDに話を戻すと、今やよほどの大家でもさっぱり売れないのだそうで、とうにビジネスとしては成り立たなくなっているようです。
ネットの普及で、音楽も有難味とか重みを失って、じっくり付き合う対象ではなくなり、ただ消費する対象に格下げになったことが原因だろうと思います。
幼少期からいろいろなことを犠牲にして、ひたすら修業に打ち込んで勉強を続け、コンクールに入賞するなど、それなりのキャリアを積んでも、世間から妥当な評価を受けることも困難で、演奏機会も与えられない若者がたくさんいるのだろうと思うと胸が痛むし、だからもうやってられないと悟ってクラシック音楽の道なんて志す人は激減しているというのも頷けます。
そこに追い打ちをかけるように、ネット上にはユーチューバーという種族がいて、ピアノも例外ではなくまさに玉石混交の世界。
中には本当に上手くて才能もあって、感心するような人も一握りはいるけれど、多くは言葉にするのも憚られるような下品な見世物で、やれチャンネル登録だの再生回数だのを稼ぐために、これでもかという奇抜なアイデアを駆使し、目立ちたい一心でネタとしてピアノを弾くのですから、「今はそういう時代で、こういう新しい方法もある」といえばそれまでですが、敢えて全否定こそしませんが肯定もできません。
誰もが、いとも簡単に世界中に動画や主張を発信できるというテクノロジーは、それ自体は大変なことだけれど、正直言って、そんなものは「なくていい」「ないほうがいい」というのがマロニエ君の結論です。
まともなものの価値がなくなり、花壇は踏み荒らされ、目立つことで再生回数の数字がバロメーターで、それが世の中のうねりになると、もう止めようがない。
しかも、音楽という小さな一分野にかぎらず、政治でも経済でも、それによって世の中が真の恩恵を享受するに至ったかというと、人はより孤独になり、心は荒れ放題というのが実態でしょう。
鑑賞する側にもある程度の成熟が求められるのがクラシックの世界ですが、聴衆だってこんなにいろんな物に囲まれて、不安の中で生きているというのに、クラシック音楽だけはこつこつと旧来の方法で鑑賞眼を高めるなんていう暇もなければ、気分にもなれないでしょう。
ちなみに、最近見たある映画で言っていましたが「世界中のすべての音楽配信の中で、クラシックの占める割合はわずか1.5%で、それも聴衆の高齢化が進んでさらに低下している」んだそうです。はぁぁ。
ネット時代の到来前には、想像もできなかった現実がいま目の前にあるということです。
それでも演奏家の中にはなんとか踏ん張っている人もいるけれど、若いピアニストの中には演技で「天然キャラ」「才能ある人はちょっと違う」というのをアピールしようと、わざと外れたことを言ったり、小さな失言をしてみせたり、生理的に受け付けないような不気味な人もいたりして、見るたびに鳥肌が立ちます。
それに比べれば反田恭平さんや辻井伸行さんは、まだ清々しさがある。
いま音楽を楽しむには、こういうホラー映画のような森だか深海だかをかき分けながら、ようやく数少ないまともなものを探し当てなくてはならないというストレスのかかる作業が必要で、昔のようにある程度セレクトされたものの中から選べばいいということはできなくなったのは疲れますね。
そういう意味では自分が若い頃には、最高(と思える)のものに囲まれていつも感動して過ごすことができたわけで、いい時代に生まれたらしいことをしみじみ痛感するこの頃です。