少し前ですが、クラシック倶楽部で広瀬悦子さんのベートーヴェンのテンペストとショパンのバラードの第1番/第4番、モシュコフスキの作品が放映されました。
昨年の12月に武蔵の文化会館で無観客収録されたもののようです。
広瀬さんといえば、過日書いたリャプノフの超絶技巧練習曲とか、モシュコフスキの作品集、グリンカの編曲集など普通とはちょっと違うマイナーな曲を見事に演奏されるピアニストというイメージでしたが、その広瀬さんが今回はがらりと方向を変えて有名どころを弾かれるんだなあと思いました。
テンペストは個人的にはとくに印象に残るほどではなかったけれど、つづくショパンの2曲のバラードではちょっとした衝撃を受けました。
事前のインタビューでも「ショパンは祖国愛が強く不幸な人生を送った人。バラード4番の頃にはワルシャワがロシアに侵攻されて親しい友人や恩師をなくしたという報に接し、深い悲しみの中で書いたもの。心の内にある悲しみや怒り、絶望などをピアノの音に表していると思う」というようなことをおっしゃっていましたが、実際にそれら2つのバラードの演奏を聴くにつけ、その言葉がひしひしと胸にこみ上げるものがあり、しかもショパンとしても繊細で美しい部類の演奏でした。
普通、ショパンのバラードというとワルツやノクターン的なものと違って、上級者向けもしくは演奏会用のピアニスティックな作品というイメージがありましたが、ここで聴くバラードには、そのようなイメージとは違って、他のショパンの作品とは何の別け隔てもない同一線上にあるものだということがはっきりとわかり、まずその点が新鮮でもありショックでもあり、それを体現できる広瀬さんの解釈にも感心もしました。
人の心の深い悲しみや憂いが、ショパン独特の美しい旋律や和声を伴って切々と(むしろ静かに)訴えてくるようで、これはまさにショパンならではの叙事詩であり、作曲時の心の有り様を、これまで耳にしていたものよりさらに濃厚に音楽に写し取られた稀有な作品らしいということが、この歳になってはじめて知ったような気がして、しばし呆然となり、この数日というものそれが頭から離れませんでした。
演奏そのものは、静かで丁寧で深いけれど騒がない。
随所に心の動きとドラマがあり、それらを可能な限り敏感にすくい取っていくようなもので、ショパンのバラードとはそういうものだったのか?と思うと、これまで抱いていた曲のイメージが崩れ、あらためて修正しなくてはならないもののように思えました。
さらに感心したのは、細部に懲りすぎるとパーツのつなぎ合わせのようになることがありますが、いかにもフランス流の横の線と優美な流れの中に必然的にディテールが収まって、それらが互いに繋がっているので、ショパン特有の憂いに満ちた美しさが結果として増しているのは唸らされます。
これまでは、ノクターンなどはいかにも繊細で腫れ物に触るように弾いても、バラードやスケルツォ、エチュード、ソナタとなるとバリバリと技巧中心の演奏となり、ある種逞しさをもって弾くのが常道のようにされていましたが、そういう捉え方にも一石を投じられたように感じました。
まるでルーブルにでもありそうな、人間の嘆きのひとコマを描いた、深い色調の絵画をショパンの音の筆致で見せられたようでした。
これは大変なことになったと思い、さっそくCDを調べてみると、2010年にバラード全曲がリリースされているものの、購入しようにも品切れや取り寄せであったり、入手困難なようです。
尤もCDは10年以上も前の演奏で、今回のクラシック倶楽部の演奏はつい先日のもの、その年月の間により熟成されて今日の姿に到達したものだとすると、仮にCDを手にできたとしても、今回と同様の感銘が得られるものかどうかは保証の限りではありませんが。
正直いうと、これまでの広瀬さんの演奏は、どちらかというとマイナーな技巧的な曲を苦もなく鮮やかにものにしていくタイプでもう一つマロニエ君の好みではなかったのですが、ショパンに対してこんな深いアプローチができる人だったとは露知らずで、今後は見る目を変えなければいけないという気がしています。
CDのネットショップのレビューなどでは「ショパンなどより、広瀬さんにはもっと近代的な曲を弾いて欲しい…」というような書き込みがありましたが、マロニエ君はこの2曲のバラードを聴いてしまった上は、ショパンの録音を増やして欲しいと思います。
初見や暗譜が得意で、技巧を兼ね備えた人なら、埋もれた難曲を掘り起こして世に紹介することも意義ある仕事だとは思うけれど、ショパンのバラードのような超有名曲を、まったく既成概念に囚われない独自の解釈で問い直し、しかも自然な説得力をもって弾くというのは非常に難しいことだと思うし、それをやってのける広瀬さんには舌を巻くばかりでした。