当たり外れ

3月最後の題名のない音楽会で「小菅優が3大作曲家のピアノソナタを弾く音楽会」というのがありました。

ここでの3大作曲家というのは、モーツァルト、ベートヴェン、ショパンとされており、なにしろ30分番組なので、モーツァルトはKV330の第一楽章、ベートーヴェンはテンペストの第三楽章、ショパンは3番のソナタの第四楽章というものでした。

マロニエ君にとって、小菅優さんは日本人ピアニストの中ではご贔屓のピアニストのひとりで、あくまで作曲家と作品を中心に据えて、ご自身は媒介者としての位置を取りながらいきいきした演奏をされる方だという印象を持っています。
もちろん、「うーん…そうかなぁ?」と疑問を感じることもありますが。

それでもマロニエ君が小菅さんのピアノが好きなのは、とにかく人のマネではない自分の解釈と表現を持っておられ、それを臆することなく演奏に反映されるところです。
また、テレビなどでお見かけする限りでは、お人柄も素敵な方で、ピアノを弾く人によくある臭みがなく、いつも謙虚で、自慢気なことをいわれるようなことは聞いたことがありません。

それに、ご当人がピアノを弾くことがとにかく好きだというのが伝わるし、小さい時から単身ドイツに渡るなどされ、ピアニストに必要な度胸やタフさもあるけれど、それが少しも人間的に歪まずに育った感じがあるところなど、好感がもてるのです。才能もあり、ピアニストになるための条件も備えられ、いい意味で健康的という印象。

なぜこんなことを書くかというと、この人はピアノが好きなのか?何のために弾いているのか?といった根本的な疑問を感じてしまうような人が決して少なくないからです。

小菅さんに話を戻すと、この日の三曲はどれもイマイチな印象が残りました。
たしかに小菅さんの演奏なんだけれど、曲の求めるものと解釈が必ずしも合致しているようには聞こえなかったのは少し残念でした。必要以上に曲をドラマチックに仕立てようと、このときはやや力みすぎたのかもしれません。

演奏というのは、楽譜に書かれたことを読み取って、それを作曲家の心情に寄り添いながら実際の音に再現するときに、併せてどこまで演奏者の言葉にもなりえているか…ということじゃないかと思うのですが、この日の小菅さんは自分の言葉が前に出すぎていたように思いました。
とくにモーツァルトは、そんなにメリハリを付けないで、ありのまま軽やかに流れたほうがいいように思ったし、メリハリのたびに曲の流れがあちこち寸断されるなど、作品のもとめるものとちょっとズレているように思われました。

テンペストは、我々が思っているものとはずいぶん違ったもので(もちろん違っていることは大いに構わないし、演奏には新しいものや冒険心も必要ですが)…ちょっと独りよがりかなあ?という印象。
右ペダルが少なめで、縦に区切られる感じがあり、あるときは静かに、そうかと思うと急に激したりと、表情の変化が絶え間なく変化するあたり、そこがベートーヴェン的だといえばああそうですかと云うしかないけれど、個人的にはもう少し横のラインにも一貫したテンポを感じながら、聴く側はその流れの中でさまざまなメッセージを汲み取っていく演奏のほうが、この第三楽章には相応しいような気がしました。
音楽というものはある意味で抽象表現の芸術だと思いますが、どこか演劇みたいでした。

ショパンでも基本的には同じで、この第四楽章はそのまま一息に弾いても充分ドラマティックなのだから、そこに過度の切れ味や意味や表情を加えすぎるのは、マロニエ君の趣味ではありませんでした。
とくに出だしの両手3オクターブの連続は、早すぎで野性的でベートーヴェンの続きかと思ったほど。
小菅さんのピアノの特徴は、小気味良いリズムと熱いテンション、それに伴う大小さまざまな抑揚で、それらが生み出す生命感が魅力なんですが、とはいえ、さほど噴火しなくてもいいと思う場所で、ひっきりなしに噴火と鎮火を繰り返されると、そっちの方が目立ってしまって、かえって曲の形が見えづらくなることがあるのが惜しいというか、もう少し端正な部分もあるといいように思いました。
とくにショパンでは、どんなに速いパッセージでも一音一音の美しさを大切にしてほしいもの。

まあ欲を言えばキリがないし、ツボにはまったらハッとするような素晴らしい演奏をされるわけだから、それを含めてのこのピアニストの魅力だとは思いますし、基本的に音楽に献身する希少なピアニストだという思いは変わりませんので、次を期待します。

逆にいえば、マロニエ君は何でも特徴もなくそつなく弾けるだけのピアニストには興味がなく、出来不出来のある人間臭い人のほうが遥かに好きだし、おもしろいし、魅力的だと思います。

追伸;その後、NHK-クラシック倶楽部では2019年のリサイタルの模様が放送され、そこにもテンペストがプログラムに含まれていましたが、こちらはもちろん全曲で、はるかに素晴らしい出来でした。とくに第三楽章は先日のスタジオ演奏と共通する部分もあるにはあるけれど、第一/二楽章を経て終楽章に到達すると曲が俄然必然性を帯びて、はるかに自然なものでした。それと、この方はやはり大舞台でこそ本領を発揮するタイプかもしれません。とくに冒頭のダカンのクラヴサン曲集第1巻の「かっこう」は何度も聴きたくなるような素晴らしい演奏でした。