裸の王様

コンサートに行ったり(最近はあまり行きませんが)、音楽演奏のビデオ等を視聴していていつも感じることは、奏者は自分の演奏に対する疑念や検証とか鍛え込みが少ないのではないか?ということ。
とりわけ他人の意見や感想に耳を傾けるということ。

これは誤解なきようにいうなら、決して大衆的なニーズに耳を傾けるという意味ではありません。
この点はまず明確にしておきたい。
信頼できる人の意見に耳を傾けることによって、自分の演奏にさらなる彫琢と、熟成と、誤りがあれば軌道修正を加えるという意味においての話です。
真の才能の本質的な部分はいわば人格と同じだから、それが本物なら変わるものではないのだから、他者の意見にも耳を貸して自身の芸術を深めるというのは大切なこと。

もっというなら、客観的な意見とか、厳しい評価といった風雨に晒されないものは、芸術とは呼べないのではないか?とさえ思います。

言うまでもないことですが、いわゆる先生と生徒のような関係でのレッスンということではなく、音楽のわかる人、さらにいうなら音楽だけではない信頼できる審美眼の持ち主の意見を聞いて参考にすること、あるいは意見交換するということは、とりわけプロの演奏家にとっては不可欠なことではないかと思います。
ところが、この不可欠と思えることが、現実に実行されているかというと、これが甚だ疑わしく感じられて仕方がありません。

一般論として、若いころやデビューしたての頃にはとても素晴らしい魅力的な演奏をしていた人が、その後少しずつ好ましい道から外れて、軌道修正されないまま放置状態になる、あるいは僅かな欠点と感じていたことが修正されず、むしろ助長され顕著になっていくことがあるのは、なにより残念でなりません。
プロになりステージに経つようになって、俗にいえばエラくなってしまうと、よほど自分から強く求めないかぎり、意見してくれる人がいなくなるからだろうと思います。
これは裸の王様にも通じることかもしれません。

とりわけ日本人の演奏家は、他者からその演奏についてとやかくいわれる(言葉が適当かどうかわかりませんが)のが、なによりも嫌いだそうで、マロニエ君が最も驚く点もここにあるのです。
なんと了見の狭い甘ったれというべきか、演奏家として、プロとして、芸術家として、あまりに意識の低い、真摯な気構えのないただただ驚きます。
チケット代をとって、プロフェッショナルとしてステージに立って、人前で演奏するという大胆なことをやりながら、批評はされたくないとは、これほど身勝手なことがあるだろうかと思います。
実際の演奏を聴き手がどう感じたか、そこに興味が無いなんて、マロニエ君にいわせればそれだけでステージに立つ資格はないと思うのです。

だから日本人の演奏家はどこか自己満足的で、ただ目立ちたくて、チヤホヤされて賞賛されたいだけの、いいとこ取りだけをする種族としてどこか低く見られるわけです。
もしコンサート終演後に楽屋に訪ねて行って「貴方の解釈には賛同できなかった」等々言おうものなら、当人は引きつって不快感を露わにし、聞く耳など持たないでしょうし、意見したほうはクレーマー扱いでその場からつまみ出されるのがオチでしょう。

ひとつには大半の人達は幼少期から、芸術的な環境に身をおいて育ってきておらず、ごく狭いピアノ一筋で社会性もなく、まして教養など及びもつかない教師から、ひたすら技術的な訓練を受けるだけで育ったからだと思います。

このぬるま湯が最も危険です。
なので、パートナーが一番厳しい評論家というような場合はわりに上手く矯正されていくのかもしれませんが。

例えばですが、むかしの芸術家は仲間内でも絶えずディスカッションしたり、たむろする店があったり、ときには喧嘩したりしながら、互いに厳しい批判を浴びせかけながら切磋琢磨していたようです。
芸術家というのは、ある意味でハングリーで打たれ強くなければ、その道を極めることは極めて困難というか、それが高めていくという現実があると思います。
こういう苛酷さは芸術家にとって最も大切な栄養分であるのに、現代ではそういう意味では、ぽかぽか陽気の無人島に暮らしているようなものかもしれません。