映画『蜜蜂と遠雷』

数年前、ピアノを主軸にした異色の小説として『羊と鋼の森』『蜜蜂と遠雷』が立て続けてに出版されて、そこそこ話題にもなりました。
『羊と鋼の森』はピアノの調律師を目指す青年の成長が描かれ、『蜜蜂と遠雷』ではピアノコンクールが舞台となる小説で、いずれもすぐに購入して読んだものです。
個人的には期待ほど惹きつけられるものではなかったし、とりわけ『蜜蜂と遠雷』は架空のピアノコンクールが設定され、第一次予選から決勝までの様子が延々と綴られただけという感じで、「これが今どきの小説なのか?」とも思ったし、作者が作品にこめる意図や主題もさっぱりわからずじまいでした。

実際のコンクールではなく、あくまでフィクションであるし、かといって読んでいるだけでも小説世界に引き込まれるような文学としての面白さも個人的には感じられないまま、ただ最後までがんばって読み進んだというだけで、あれはなんだったのか?という思いだけが残りました。

この二作は映画化までされて、『羊と鋼の森』は観に行ったけれど、さすがに『蜜蜂と遠雷』はもう結構と思っていたところ、たまたまAmazonPrimeにあったので見てみることに。映画なら映画化のために多少は再構成されておもしろく仕上げられているかも…というかすかな期待もあったけれど、原作同様マロニエ君にはとりとめのないもので、観ていてどこにポイントを置いていいのかもわからないままでした。

数人のコンテクタントがべつにどうでもいいような半生や事情を抱えながら、悩み葛藤しながらコンクールに挑むという仕立てで、こういうのが今どきの味わいというか、人間描写であり感動ってやつなんですかね…。
やたらセリフの少ない心情描写のシーンが多く、ピアノの素晴らしさを伝えた母の存在とか、ホフマン(ヨゼフ・ホフマンではもちろんない)という亡大家が「爆弾を仕掛けた」と言い残したという天才少年という設定など、全体にどこか安っぽい印象がつきまといます。

韓国など、腰のすわった見応えのある映画を次々に作っているのに、日本の映画はポエムばかりで真実に目を背ける臆病さが足を引っ張っている思います。

そもそも実際のコンテクタントが、コンクールに出るあたって、そんなに自分の生い立ちだの、人生だの、恩師との関係だの、諸々の問題をピアノと関係づけ、立ち止まり、ピュアに悩みぬいた末にステージに登場しているだなんて、申し訳ないけれど思えません。
コンクール出場なんてもっと直接的な、世俗的な、生々しい欲望と立身出世のための勝負の世界がそこにあるだけとしか思っていないので、物事を事実からかけ離れたように美化して描くことが小説だなんて、とても思えないのです。

ピアノ学習者の中から、とくに才能と実力があると認められた者が、さらにプロとして一旗あげるための手段として有名コンクールに出る、ただそれだけなんじゃないの?としか思えないのです。
そのために名だたるコンクールを渡り歩く常連組も少なくなく、近年のコンクールとはひとことで言えば、ピアニストの就活以外のなにものでもない。
いわば、ピアニストとしてやっていくための一攫千金を狙うようなもの…それに尽きると思うんですけどね。

原作にしろ、映画にしろ、あまりにも作者の意図をとらえ難いものだったので、もしやマロニエ君のほうが作品に対する理解力を欠いているのかと思い、Wikipediaをみてみたら「国際ピアノコンクールを舞台に、コンクールに挑む4人の若きピアニストたちの葛藤や成長を描いた青春群像小説」とあり、はあそうですか…という感じでした。

マロニエ君だったら、もし国際ピアノコンクールを小説化するのなら、そもそもコンクールなんて要望と闇だらけのものなんだから、山崎豊子調の生々しい切り口で(コンテスタントのみならず、ピアノメーカーも巻き込んでの)どす黒い世界として描いたほうがよほど読みごたえもあるし、社会に対する問題提起にもなるのではないかと思います。

それを五社英雄氏のように映画化でもすればおもしろいと思うけれど、いずれももうお亡くなりになった方ばかりだし、マロニエ君の好み自体がもはや時代遅れなのかもしれません。
自分が古いぐらいは一向にかまわないけれど、どうして今の人って、あんなにふわふわした甘ったるくてわざとらしい情緒世界がそんなに好きなんだろうかと不思議だし、おそらく社会派風のエグさのある作品より、表面的にきれいでポエジーで「夢を追う」といった感性が根っから好きなんでしょうね。

現実の人間関係でもきれい事ばかりで、善人を演じるのが「大人の対応」などと尊ばれる世の中だから、好みまで変化してしまっているのかもしれません。