アマチュアの義務

かつてN響の第一ヴァイオリンを長年勤められた鶴我裕子さんの愉快なエッセーのことは、以前にも一度書いたような気がしますが、先日またパラパラやっていると、演奏者に対して(評価が)一番やさしいのは意外にも同業者で、褒められて一番嬉しいのもこれまた同業者なんだとか。
さらに批評のプロである評論家がいて、最もイジワルなのがアマチュアだとありました。

これって、はじめは意外なような気もしたけれど、一歩踏み込んで考えてみれば「そうかもしれない」と納得したところです。
同業者は文字通りの同業者だからこその甘さ(内心はともかく)もあれば、明日は我が身という保身的な意味を含む同族意識もあるだろうから、ライバルであるけれど理解し合える人達ですからね。

また、評論家は依頼があり、それで文章を書くことで原稿料を得ているのだから、業界で生きていくための複雑な事情や利害が常に絡み込んでいる立場。おまけに時代も変わり、もはや野村光一や吉田秀和や宇野功芳らが活躍できた時代ではないのだから、「心得た内容」が求められ、評論家による実質宣伝記事こそが歓迎され、それでwinwinの関係にあるような雰囲気がプンプンしています。
よって、各人も自分の役割をじゅうぶん心得て、求められることを書いているだけではないでしょうか…。
表向きは批評のプロであることを示しつつ、褒め言葉を散りばめながら、評論家としてのアリバイ作りのためにもやんわり苦言を呈することもしてみせなど、バランス感覚やあれこれの配慮がさぞ大変だろうとご同情申し上げます。
なんにしても、少なくとも思ったまま感じたままを書いていたら、直ちに業界からつまみ出されてしまうでしょう。

その点、アマチュアは文字通りアマチュアなんだから自由だし、「業界との繋がり」なんぞという弱みも縛りもなく、脅しも通じず、純粋に(そして勝手に)音楽を聞いている立場だから、良く言えば最もピュアな聴き手となるのは自明のこと。
そもそも、最もピュアというのは、裏を返せばそれ自体が厳しく、妥協を知らず、ときに残酷であることも世の常です。
宗教においても最も融通がきかず恐れられるのは原理主義者であるように。
それ故、アマチュアが一番手厳しく、情け容赦ないイジワルになることも必然ですね。

音楽や演奏の発する、それのもっとも純粋な部分のしもべとなり、理想を追い求め、そこから一滴の心の滋養を得んがために、日ごろからどれだけの無駄を費やしていることか。
一文の得にもならないばかりか、むしろ身銭を切って、もしやの瞬間を求めて自由意思によって音楽を聴いているのだから、その評価が厳しくなるのは当然でしょう。
むろん中には、批判のための批判をするようなスノッブで歪んだ心根の輩がいることも事実ですけれど…。

というわけで、同業者というのはつまるところ「足を引っ張る」か「自分のために、相手も褒めておくか」のどちらかである場合が多く、その人達から核心をついた、真の反省や参考に値する評価を得ることは、現実的になかなか難しいのではないかと思います。
コンクールの審査でも、審査員が現役演奏家である場合、本能的に近い将来自分の地位を脅かしそうな人には、いい点を付けないというのは何度か聞いたことがあり、それは審査として間違っているけれども、人間の闇とはそういうものでしょう。

その点、真に信頼に値する批評こそ、実はアマチュアに課せられた役割だとマロニエ君などは思うのですが、世の中というものはアマチュアというものをまずもって下に見る傾向があり、くだらない権威主義が幅を利かせる中で、これが(とりわけ日本では)文化向上の障壁になっていると思います。

例えば、パリの芸術のレベルの高さが奈辺にあるかというと──マロニエ君の想像も多分にありますが、多くの大衆、すなわちアマチュアが下す判断のレベルが高く、彼らは批評家の言うことなど意に介さず、自分の感じたこと受け取ったことがすべて。
すなわち自分達の感性を最大の拠りどころとする総批評家であり、だからそこ彼の地では本物でないと受け入れられない厳しさと信頼性があるのではないかと思います。
この料理は美味しい、まずい、ああだこうだとピーチクパーチクいうように、ごく自然に好き嫌いや感じたことを発言し、当たり前のようにディスカッションを交わす、しかもその大半はアマチュアによるものであって、まず批評家や大勢の意見を確認して、それに従うなんてあるわけがないし、へたをすれば批評家が批評の対象にさえなっていまう。

日本人は芸術を必要以上に高尚で特別なものと捉え、それは特殊な専門領域ように捉えられてしまいますが、それだからダメなんだよねぇ…と思うのです。
どんな人でも自分の好きか嫌いかということ、自分の好みを超越して真に素晴らしいものには感性の何かが反応するというセンサーを持っているのだから、畏れずそれに正直になるべきです。
さらに、いかなる分野であろうと、例えばオタクといえば極端ですが、アマチュアの人達の知識や経験量、その評価の辛辣な厳しさは、生半可なプロなんぞ凌駕してしまう深みと審美眼さえあるでしょう。
本当の批評は、そこに何の利害も絡まない直感に優れた人たちによるものであるべきだとマロニエ君は思います。

かつてアメリカには、演奏家の生殺与奪の権さえもつと恐れられる、批評界に君臨するカリスマ的な御大がいたりしましたが、彼らも結局は陰で薄汚いビジネスが絡んでいたりで、マロニエ君はそんなものはまったく信頼しません。

そのためには頑として自分の意見や感じるところを信じ、権威者の意見を信じないことですが、悲しいかな権威が好きで横並び精神旺盛な日本人にはそこが最も苦手なところ。
聖徳太子の「和をもって尊しとする」のは結構ですが、自分の感じたことも深くしまい込んで必要な意見交換やディスカッションさえできないというのでは、それが本当の「尊い和」であるのかさえ疑問です。
素直な意見を言って的外れだったら笑われないか、無調の音楽を嫌いなどと言おうものなら軽蔑されるのではないか、そういう心配ばかりですが、別に笑われても軽蔑されても構わないじゃないかという腹をくくって欲しい。

マロニエ君は知人などとコンサートに行ったら、休憩時間などではすぐに感想を言いたくてウズウズするのですが、それをいうと大抵は相手の顔に困惑の色が現れ、イチャモンといった捉え方をされるので、しだいに何も言わないよう沈黙するようになりました。
でもこれは悲しいことで、音楽を聞いたり、絵を見たりして、その感想を言ったりするのが鑑賞者の楽しみであるはずなのに、それが相手に迷惑だったり非常識のように捉えられるなんて、ナンセンスの極みだろうと思いますが、それが日本の現状なんですね。