聞こえてくるもの-2

どうでもいいような、前回の続きです。

むかし何かで読んだ記憶があるのですが、CD等を聴くにあたって、ひとりのピアニストの演奏や音楽に対して、真剣に耳を傾けたいときには、オーディオの音量は必要最小限に絞るべしとありました。
そうすることによって、音圧や迫力で誤魔化されることなく、ピアニストの有する演奏フォルムとか構成力、音色やダイナミクスの相対性が明瞭化され、細部や表現の機微、テクニック等、演奏者の本質がより見えやすいというものでした。

当時、大きめの音にしてその音の奔流に身を任せるようにして聴く快感はもちろんあったけれど、夜間など小さい音で聴く時に「ハッ」と思うようなものが聴こえてくることが何度もあり、見えなかったものがスッと姿を現すような感じを受けるような瞬間があることを経験していたので、それは経験的にすぐ納得できました。

これを演奏する側で、生来理解していたのがショパンではないかと思います。
数々の文献で伝えられるショパン本人の演奏とは、音が小さめで陰影に富み、繊細な音色変化やデリカシーを極めた精緻で気品にあふれるタッチ、霊感に満ちた歌わせ方などを身上としたようです。
当然、大会場を好まず、ほどよいサイズのサロンでの演奏にこだわったのも、自明のことだと思われます。

この法則(といっていいかどうかわかりませんが)は現代の音響に優れたホールと高性能なコンサートグランドをもってしても、基本は変わらないものがあると思います。

なんであれ、大きすぎる音は、それを聴く側の判断を鈍らせるという思いは変わりません。
楽器の良し悪しや、調整の結果についても同じで、本当に見事な腕を有する調律師さんは、大抵ごく小さな音で調律されるあたりにも、それは見て取れる気がします。
逆にフォルテやフォルテシモを多用して調律される方は、音のどこにピントを合わせて調律されるのかと思いますが、素人のマロニエ君がそれを言っても詮無いことでしょう。

もしもマロニエ君がピアノ技術者だったら、条件が許せば、最終チェックの中にもう一つ項目を増やして、蓋類を全閉にして音を聞いてチェックするということをするかもしれません。

また、ピアノの蓋すべてを閉じた状態の音というのは、音響的にどうこうというのを別にして、個人的にはこれはこれの良さみたいなものがあって、決して嫌いではないのです。
もちろん楽器本来の音としては、大屋根まで開けた状態のことであるのは言うまでもありませんが。
ただ、現実的にテレビドラマのセットじゃあるまいしグランドの大屋根はもちろん、アップライトの屋根なども開けた状態なんて、こんな状態で常用するなんてあるわけがない。
なので、フタ類を閉じた時の音も日常では結構重要なものになると思うわけです。

くわえて今日の社会では、近隣への騒音問題も生活マナーとして配慮が求められる中、せめて一定の割合だけでも閉じた状態で弾くことはそれほど間違いでもないだろうと思うのです。
そのとき最大の問題は楽譜立てがないことですが、これは以前にも書いたので多くは繰り返しませんが、音を最小化するため譜面台じたいを閉じた前屋根の上に置いて弾かれる方もありますが、個人的にあれだけはイヤなんです。
なぜなら、あの形にする(あるいは元に戻す)のは結構面倒だから、いったんそれにしたらマロニエ君の性格上それっきりになり、前屋根を開けることはまずなくなるはずで、それではせっかくのピアノが開かずのピアノ状態になってしまう可能性大で、それは絶対にしたくない。
だいいち見た目もヘンな獅子舞のようで不格好なことこの上なく、さらに多くの場合ここに暑苦しいカバーが挟まれ、ピアノの上はそこらじゅう楽譜やチラシなどが積み上がる。
こうなるとピアノの上はちょうどいいな物置きの場となり、鉛筆や消しゴム、可愛くもない小間物など、無いほうが絶対いいようなモノがごちゃごちゃ集まって、みっともないし、せっかくのグランドの意味も半減。

さらに、ただでさえ高い位置にあるグランドの譜面台は、このスタイルによって、さらに何センチも上へと移動することになり、椅子の低いマロニエ君など考えただけでも首が痛くなりそうで、これだけは断じて御免被りたいわけです。

何度も話が放浪してとりとめもない文章になってしまっていますが、要は繊細な音にこそ敏感になり、常に聞き耳を立てることは、通常の演奏中の音色にも注力する習慣にもなるので、決して悪いことではないと思うわけです。
せっかく練習を積んで曲をなんとか弾けるようになっても、自分の出している音が曲調にマッチしているかどうかに気づいたり考えたりする人は、意外と少ないように思いますが、音に対する自分のセンサーはどの角度から見ても大切だと思います。