マロニエ君は、あらためて言うまでもなくピアノが好きで、楽器自体も、一流ピアニストの演奏を聴くことも、作品そのものに関心をもって自ら弾くことも、どれもがすべて好きなのに、悲しいかな子供の頃から筋金入りの練習嫌いで、三つ子の魂百までの言葉の通り、それは今でもまったく変わりません。
弾くことが好きといっても、ピアノの場合、弾く=練習であるのは不可分のこと。
世の中には天才的な人とか、フランスの音楽教育などでは特に初見能力がずば抜けているようで、楽譜を見るなりサラサラ弾けて、そんな場所からはじめられる人だったら、さぞ練習も楽しいだろうなあと羨むばかりですが、そんな譜読みの才能もないマロニエ君などは、地道にひとつひとつの音符を必至に追いかけながら、スローな練習をトボトボと重ねる他ありません。
それでも性懲りもなく挑戦して、まあそれなりに曲がましくなったときの喜びはたとえようもありません。
ただ、最近は暗譜能力が退化したことは非常に情けないことで、当然そのぶんの練習効率も下がります。
若い頃はある程度やっていれば、さして苦労もなく暗譜もいちおうはできていましたが、50も過ぎるとすっかりその力まで減退し、むかしなら指が曲の動きを覚えていくと共に暗譜もできていたものが、最近ではよほど繰り返したものでさえ、記憶に自信のない箇所が必ずどこかに出現して、いつまでも楽譜を閉じられないのは情けない限りで、それでうんざりしてピアノの前を離れることも。
また、本当は基礎練習は欠かせないことなので、ハノンのような指練習とか、全音階4オクターブ両手のスケールを弾くとかしなくてはいけないのでしょうけれど、そんなのはまっぴらごめんで、すべてすっ飛ばしですから、上達しないのも当然といえば当然。
それと、ハノンなどの練習をしないのは、それが嫌いなだけでなく、ピアノの(特にハンマー)を大事にしようと思ったら、同じ音域の白鍵だけを繰り返し消耗させることになり、それで楽器としてのバランスを崩していくのも併せて気になるのです。
車好きが、キツイ段差などを極力避けながら走ることで、サスペンションのブッシュなどのダメージを避けるのと同じ発想ですね。
ピアノの練習で不可欠なのは、合理的かつ自分にとって最適なフィンガリングは最も重要なことのひとつで、信頼できる楽譜を基調にしながら、その上で自分に適した指使いを考えていかなくてはいけませんが、これがまた面倒くさい。
また、弾きやすさだけを探し出せばいいかというと必ずしもそうではなく、やはり音楽である以上、その場所場所においてどういう指使いで弾くことが、その曲に最適なアーティキュレーションあるいはニュアンスやイントネーションを可能にするかということも関係するから、それが即座に整理できないマロニエ君はどうしても試行錯誤となり、自分の心もとない指の都合とできるだけ音楽的な意味を損なわないような最良の妥協点を探す必要があり、稀に楽しいこともあるけれど、大抵は疲れてきて「…今日はもうやめた」となります。
それと、一番いやなのが部分練習であり、片手練習で、これを怠るとゆるぎなく弾けません。
こういうイヤだイヤだの局面をいくつも乗り越えたその向こう側にしか、少しなりとも弾けるようになったときの喜びの地平は広がらないので、(お上手方はそんなご苦労はないのかもしれませんが)ピアノを弾いて楽しむというのは、なんという手間暇と忍耐に対して、やっと得られるわずかなご褒美であることかと思います。
で、ただ一人、任意で、これを日々積み重ねるというのも、なかなかモチベーションが続くものではないから、多くの人はレッスンに通ったり、発表会などを目標に設定したり、あるいは弾き合いのサークルのたぐいに属したりするのでしょうが、マロニエ君というのは幾重にも困ったヤツで、そういうものがどうしても好みではないし、まして人前演奏なんてこれっぽっちもする気がないので、単純にいつまでに仕上げるとお尻を切られることもなく、上記のような慢性型練習嫌いと相まって打つ手なしなのです。
そんなふざけたやり方でも、マロニエ君がピアノを「弾く」ということを細々でも続けている、あるいはそのために上記のような七面倒臭い練習をろうそくの火のようにでも継続しているのは、やはり音楽とピアノがどうしようもなく好きという本能があるからに他なりません。
さらには、滅多にありませんが、ごく稀に自分なりに上手く(技術的というよりは音楽的に自分が求めているように)弾けてしまう時があって、そんな時にはひとり感動して陶然となり、思わず目頭が熱くなることがあるのですが、そういう時はしばらくは曲の世界から現実に戻ることもできにくくなるほど一種のアホ状態になることがあります。
こういう、めったに訪れない偶然がごく稀にあるものだから、その魔力にやられてやめられないのだろうと思います。
何ら生産的なことでもないし、一切人様のお役に立つことでもなく、100%とムダといえば返す言葉もない。
まして進歩しているか退化しているかもわからないけれど、それでも自己満足で続けているということでしょうか。