大井和郎

自室のオーディオ周辺にあるCDもいいかげん聴き飽きてきたので、ちょっと違ったものが聴いてみたくなり、CDの棚を見ていたところ、もう何年も手にしなかった大井和郎さんのリストのCDが目に止まりました。

これを買った当時は、さほど惹きつけられるというほどではなかったので、数回聴いただけであとはどこか行方不明みたいな感じだったのですが、数年ぶりに聴いてみると、知らず知らずのうちに自分を取り巻く音楽環境も変わってきているせいか、ここに聴かれる実直な演奏には、妙な安心感と懐かしさみたいなものがあり、それが却って新鮮さを伴って聴こえてきて心地よくなり、それからの数日はこればかり聴きました。

マロニエ君は何度か書いたことがあるかもしれませんが、リストの偉大さというのは自分なりにわかっているつもりで、やはりわかっていないのか、要は趣味が合わないというか、あるところまで行くとどうしてもそれ以上は気持ちが進めません。
膨大な作品の中にはきわめて芸術性の高い曲も存在し、それには他には代えがたい価値と魅力があと思うけれど、同時にマロニエ君がもっとも苦手とする類の有名曲が多くあったり、あるいはやたら技巧的なサーカスのような曲が際限もなくあったりと、自分にとって好ましい曲だけをピックアップする作業も面倒なので、どうしてもリストは疎遠になってしまいます。

久々に聴いた大井さんのアルバムは「リスト 巡礼の年 子守唄」と題するもので、まずホッとすることはマロニエ君が聴きたくないと思っている作品が一つたりとも入っていないことで、さらには大井さんの演奏はいささかも奇をてらわないストレートなもので、どの曲にも正面からまっすぐに向き合っておられる点が、以前よりもことさら嬉しく感じられます。

いろんな手段やアプローチによって何かを狙うようなことはなく、きちんとした美しい文字を見るように曲をストレスなく聴けるというのは、なんと心地よいものかと思います。
厚みも重みもあるし、自然に曲が語りかけてくるような表情もしっかりあって、聴き応えも充実感もじゅうぶん。
あまり意識したことはなかったけれど、マロニエ君は大井さんのCDはほかにも数枚持っていて、とくに好きなピアニスト!として意識したことはなかったけれど、いくつかのリストのほかはハチャトリアンのピアノ曲集があったりと、選曲も独特なので、結局は数枚は買っていたようです。

大井さんに限らず、一見地味でスター然としたピアニストではないかもしれないけれど、こういう信頼感のあるピアニストが、その演奏によって支持され、実力に見合った活躍のできる音楽環境がもっと自然にあればどんなにいいだろうと思います。
コロナとは関係なく、真っ当なピアニストが、真っ当な活躍をできる環境は、ますます失われているようで、マロニエ君の思い違いなら嬉しい思い違いですが…。

大井さんのCDに話を戻すと、この方はマロニエ君の知る限りでは、ベーゼンドルファーを好まれるピアニストで、おそらく私が持っているその他のCDもいずれもそうだったように思います。
たまに聞くと、これはこれで気分も変わっていいなぁと思いました。

今のピアノは良くも悪くもあまりに洗練されきれいすぎて、目指す方向や個性も似たり寄ったりで各社の個性の違いの幅は狭まり、それがひいては芸術表現の幅までもを失っているんじゃないか?という気がします。
もっと率直言うなら、高級電子ピアノのように一糸乱れぬ整った音の出るアコースティック・ピアノというか、本物が電子音に寄って行っているような逆の感じさえあって、だから差し当たりの音は均質できれいだけと、ただそれだけで、演奏によってなにか奥深いものが取り出してこられるような余地がありません。
ピアノに限りませんが、あまりに洗練され過ぎると必要な養分まで失ってしまい、喜びとか感銘といったようなものまでなくなったように思います。
ベーゼンドルファーもヤマハが親会社になって以降は次々に新型が出て、それらはどうなのかわかりませんが、それ以前のモデルにはこのピアノならではの個性というか明確な特徴があったことも再確認できました。

スタインウェイはじめ、今どきのコンサートピアノが淀みないビビッドな音を遠くに飛ばすことに主眼をおいているとしたら、ベーゼンドルファーはボトボトと大粒の水滴が落ちてくるようなところがあり、これはこれでいかにもピアノらしい素朴さがあって、心地よく楽しむことができました。

ベーゼンドルファーというと、やれウィンナートーンだとか、木の音だとか、貴婦人のよう、人の声に近いなどと言われます。
それもそうだろうと思いますが、加えてマロニエ君の印象としては、コンサートピアノに関しては独特の危うさのある美音で、一歩間違ったら毒々しさにもなり兼ねない、その危険地帯で見事にとどまってみせる特徴的な音だと思います。
そのギリギリまで寄せながら留める術を知っているのが、さすがはウィーンの凄さだと思うし、それによってベーゼンドルファーらしい、ただきれいというのとは異質の、ある種の不健康なものの混ざった魅惑の音が成立しているのかもしれない…と思います。