離れる時期

このところ、ピアノを弾くのがこれまで以上に気乗りしなくなってしまい、かなり遠ざかり気味かな?といったところです。

というのも、ショパン・コンクールの動画をちょこちょこ見ていると、つい止められなくなって、場合によっては1〜2時間(ときにそれ以上)PCの前に釘付けとなり、気がついたらトイレに立つのも腰がイタタとなるような始末。

だからそっちに時間を取られているというのではなく、あれこれのコンテスタントの鮮やかな指さばきを次から次へこちらの時間が足りないほど大量に見ていると、そのレベルにいつの間にか慣れてしまい、ピアノを弾くとは本来こういうものだというおぼろげな基準ができてしまいます。

それに引き換え、我に返れば(そんなことははじめからわかっちゃいるけど)そのチンタラオロオロ弾いているピアノなんて、アホらしくなって「やってられない!」という気になってしまうのです。

もちろんそんなことは、いまさら言わなくてもアタリマエで分かりきったことだし、日頃から巨匠はじめ世界のトップの演奏にも日常的に触れているわけだから、とくに今回の動画配信がそう驚くには当たらないというのが普通の理屈です。
それはそうなんだけれど、自分より遥か若い人たちが、かわるがわるにあれだけの高度な演奏を当然のように繰り広げ、それを手を伸ばせば触れられそうな鮮明画像で繰り返し見せつけられていると、いまさらながら、下手な自分がただ「好き」というだけで鍵盤に未練がましく食い下がっていることが、無性にナンセンスというかバカバカしくなるのです。

とくに普段とはまた違う環境でこれだけ集中的に大量の演奏に接し、半ばその世界に入り込んでしまうと、自分のやっている練習なんて、いくら個人の楽しみだなんだと御託を並べてみても、人間そんなにきれいさっぱり割り切れるものでもないから、「あー、やめたやめた!」という気にもなるのです。
そうはならない、強いお方もたくさんおいでと思いますが、マロニエ君は弱いのです。
どれだけ練習しても(しないくせにこういうことを言うのもいけませんが)、どうせこの歳で上手くなるわけはないし、楽しみという言葉のついた欺瞞であり浪費だなぁという思いに苛まれます。

ルーブルなどに行くと(現在はどうか知りませんが)、人目もはばからず画材を広げて堂々と模写なんぞしている人がたくさんいて、その強靭なメンタルに驚きますが、ある日本の画家が言ったことですが、ヨーロッパ人はあんなにも圧倒的な作品を前にして、よくもまあへこたれることもなく自分も絵を描こうなんて思えるもんだ、自分はあんなものをあれだけ見せられたらつくづく嫌になるだけ…というのを聞いたことがあります。

ピカソは父親も絵描きだったけれど、我が子の天才を目の当たりにして自らの筆を折ったという話は有名ですが、それが普通じゃないかと思います。

すごいものを見て衝撃を受けるということは、折りに触れあることですが、アマチュアピアノ弾きの中には、自分がどんな演奏をしているかが一向におわかりにならず、一流ピアニストの演奏会に行こうが、それこそショパン・コンクールの動画を見ようが、まったく別のことのように捉え「あの人達はプロだから」とばかりにあっさり片付けて、自分とピアノの関係性は一切変わらないでいられる、という人が結構いらっしゃることに、これはこれで驚きます。

むしろ世界のトップ連中と自分を関連づけてショック受けたりすることのほうがよほどおこがましい、思い上がりも甚だしいというふうに考える人もいるでしょうけど、マロニエ君にしてみれば、すごいものに接してなにも影響を受けないで通過してしまう人のほうがその100倍もすごいんじゃない?と思うのです。
ショックを受ける、自分が嫌になるというのは、べつに自分と彼らを同列に比較しているわけではなく、ピアノを弾く、あるいは絵なら絵を描くということの本物の世界とはいかなるものかということを、問答無用に眼の前に突き付けられて、その現実の残酷さを思い知り、そのつど打ちひしがれ、その残りのいくばくかは勉強になっているという事でなんです。

ショパン・コンクールの動画を見ていると、自分でも弾いた(というのもおこがましいので、弾く真似事をしたと言っておきましょう)覚えのある曲がたくさん出てきますが、それらは彼らにとって、あまた準備すべき膨大な演奏曲目の中のほんの一部にすぎず、それをあんな衆人監視の中で、高いクオリティをもって弾き通せるという現実の意味するものってやっぱりあるわけで、わかっちゃいてもやっぱり嫌になりますよ。

あれはあれ、で、自分のくだらん練習はちゃんとやろう、なんてヒョイとスマホのアプリを切り替えるようにはできません。
尤も、そんなもの見ても見なくても、もともとマロニエ君は「ちゃんと練習」なんてしないのだから、こんなぼやきをすること事態さらにナンセンスといえばそれもまたそうなんですが、やっぱり気分というのは厄介なもので、ピアノを弾くというのは、ああいうことなんだなという感覚からの回復は、しばらく難しそうです。

ピアニストにもいろいろなタイプがあって、演奏の様子を見て「ああ、自分も弾きたくなってきた…」と思わせてくださるお方もいらっしゃいますが、いっぽう、グールドなんて見た日には、あらゆる意味でおよそ人間ワザではないし、凡人に対する皮肉と高笑いが聞こえてきそうで、ピアノなんて天才以外が軽々しく触ってはいけないものだったんだ、どうもすみません…と思ってしまいます。

〜とかなんとかいいながら、では、まったくピアノに触っていないというほど頑ななものではありませんし、また少しずつ戻るんだろうと思いますが、今はそういう濃淡の片側に振れているということです。