プレミアムシアターやクラシック音楽館に登場する演奏家たち(とくに壮年期以上のピアニスト)は、このところショパンコンクールにどっぷり浸かっていた感覚からすると、本来の自由な場所に戻ってきたような安堵を感じたばかりか、逆にある種の新鮮ささえ覚えました。
まずなにより落ち着きがあり、当たり前のように音楽が漂ってくるあたり「ああ、やっぱりさすがだな!」というのが偽らざる素直な感想でした。
なんといっても、そこは自己表現の場であり勝ち負けのためのむやみな緊張はないので、大人のプロが紡ぎだす音や語りがありがたく、やっていることが若い人とは本質的なところで微妙に違うように感じました。
もちろんその中でも好みはいろいろですが、中にはまったく成長の跡のない方もおられ、30年以上も前に有名コンクールに入賞された人などは、その当時から感じていた固有の癖とか表現がドライで好きになれなかったのが、これだけの長い年月を経て少しは味わい深くなっているかとおもいきや、呆気にとられるほど昔そのままで、こんなにも人の演奏とは変わらないものか!と驚かされたり。
中にはそういうお方もいらっしゃるけれど、全体としてはコンクールからは遠ざかった世代のピアニストたちは、それぞれに円熟して、若い指さばきだけでないもの、新入ピアニストを寄せ付けない味わいがあるというのが率直な感想でした。
とはいえこの人達も、若い頃は同様の非難に晒されての今があり、俯瞰すれば世代ごとに同じことの繰り返しだと言われれば、そうとも言えるのかもしれませんが。
逆に今の若い方達の美点はというと、個人的にはクリアさじゃないかと思います。
生まれた時から当たり前のようにパソコンが有り、液晶テレビでデジタル放送の鮮明画面を普通に見て育った人達は、めくるめく情報を背負いながら、ああした鮮やかなきれいな演奏をするようになるのかもしれません。
ではそれが、聴いた人の心を打つのか…というとまったく別問題で、ここにもっと素直で豊かな情感が加わってくれば素晴らしい演奏になりそうですが、なかなかそう都合良くはいかないようです。
コンクールは言うまでもなく勝負の場であり、その競っている部分が昔に比べて平均技巧が上がり、いっぽう超弩級の天才や大スターのような人はまずいなくなり、枝葉末節の戦いに変化しているように感じます。
これを簡単に「今回はハイレベルの戦いです!」などというのにも抵抗があります。
そのためか、誤解を恐れずに言うと、若い方の演奏能力は見事だけれど、音楽として自然に心を託せないところがあり、全体があまりに対策的で、コンクール用に加工されたものといった感覚がつきまといます。
せっかくの見事な演奏でも、そこはかとなくウソやキレイゴトに覆われた、その人の感性としては信頼感の薄い感じを拭い去ることがどうしてもできない。
情報社会の時代だから、本来の自分ではなく、これをやったらどうなるかという結果から逆算して演奏しているなと感じるところがあり、解釈の寄せ集めといった感じがあって感性の一貫性がなく、悪く言えば注意のつぎはぎのような演奏。
それがこれでもか!とばかりにやれる人が「すごい人」ということになる。
当然つきぬけた魅力には乏しく、それではどうしても訴える力が弱まるのは致し方なく、聴衆も専門的なことはプロには及ばないとしても、心に刺さってくるものがあるかどうかはわかっているはずでしょう。
むろん尋常ならざる努力を積み上げて出場されたコンテスタントの方々の才能と努力には敬服の念は惜しみませんが、コンクールの動画をみていると、フィギュアスケート重要大会のあの空気とか、地方から勝ち抜いて上に登っていく甲子園みたいなものとだぶってしまい、いうなればピアノ演奏を競技イベント化して見せている気配が昔よりも強くなったように感じるのです。
だからこそ世界的な注目を集めるという効果も生まれているのかもしれませんが。
印象的だったのは、モスクワ音楽院の重鎮であるヴォスクレセンスキー教授がTVインタビューに答えて「現代のピアニストはコンクールに出ないとやっていけない」というようなことを仰っていたことでした。
それは、これからピアニストになるための実際的な現実を素直に述べられたわけでしょうが、ピアニストも要するにコンクール歴がすべてを決する「肩書社会」であり、人の決めた「権威社会」になったということで、そのために過酷な難関をくぐり抜けた有能な戦士のような人だけがそのお墨付きを手にできるわけで、これは一面ではわかる気もするけれど、しがない音楽ファンとしてはやっぱり気持ちはついていけません。
どれだけ素晴らしい演奏ができても、コンクール覇者でないと、ただの無名のピアノ弾きでしかないという意味にも取れるとしたら、ピアニストさえも現代的格差社会という感じです。
なのでコンクールというのは、昔以上に必要とされるものとなり廃れることはないんでしょうね。
そして結果に関する不満や、審査に対する不信感は昔からつきもので、大半の人が納得できた結果というのは必ずしも多くはないような気がします。
審査員として予定されていたマルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレの直前のキャンセル(なんとフレイレはその後死去!)がなかったら、結果は違ったものになっていただろうとマロニエ君は今でも強く考えています。
そこでふと思ったのですが、日本の(自民党)総裁選に議員票と党員票があるように、審査員の評価は主軸としながらも、一部に聴衆票というのも入れてみるのはどうかと思います。
全体の評価の中の、せめて数分の一は聴衆の評価も反映するというもの。
これは裁判における裁判員のようなものでもあるし、なにより、コンテスタントが自立してコンサートをやる場合、チケットを買ってくれるのは審査員ではなく、個々の聴衆なんですから。