受賞者リサイタル

ワルシャワではショパン・コンクールの最後の締めくくりとして、受賞者によるリサイタルというのが行われたようで、反田恭平さんの演奏動画を見たので、いまさらですが少し。

なんども繰り返して恐縮ですが、やはり個人的にさほど好みのタイプの演奏家ではないけれど、そんな個人的な問題はさておいて、日本人離れした大器ぶりを遺憾なく見せつけられるのは確かです。

最も印象に残るのは、それを支える抜群のテクニックと専門家ウケしそうなキメキメの仕上がり。
めっぽう指が回るというだけの人ならいるけれど、反田さんにはそこに日本人サイズを超えるスケールの大きさがあり、国際舞台に於いてもある種の風格さえ感じることのできる日本人ピアニストが出現したという点で、これは素直に注目に値するものがあると思います。
スポーツでも、オペラやバレエでも、すべて日本人は日本人固有の肉体的およびメンタルによって規定されてしまうようなハンディがあり、スタート地点から劣勢を感じざるを得ないような場面を、私たちはこれまでどれだけ見てきたことか。

それを感じなくて済むというだけでも気分がいいのが、大谷翔平選手でありピアノでは反田恭平という人の登場だろうと思います。
外国人に混じって戦う場で、なんらハラハラしないですむ日本人というのは、そうはいません。

恵まれた大きくふっくらとした観音様のような手、その無駄のない動きは美しく、ピアノという大きな楽器に振り回されず、楽に弾いているあたりも頼もしささえ感じるもの。

特に今回は、ホールの隅々まで力強くかつ柔らかく鳴り響かせるために20キロもの筋肉と贅肉をバランスよくつけた由で、まるでアスリートの体づくりさながらですが、考えてみればピアニストもアスリートの一面を併せ持っているわけで、驚きつつも納得でした。
果たして、その効果は絶大というべきで、コンクール本選の時よりも、この受賞者リサイタルでのほうが(録音の関係か、もしくは精神的な余裕か?)その音の充実した鳴りっぷりをはっきりと感じることができ、ひとりのピアニストの姿として際立って頼もしく感動的でさえありました。

会場がワルシャワ・フィルハーモニーではないため、ピアノも例の478ではなく、それよりほんの少し古いスタインウェイでしたが、専門家に言わせると色いろあるかもしれませんが、マロニエ君の耳には遥かに音楽性の豊かな深いものをもったピアノで、ピアニストの演奏をより芸術的なコクのあるものに表現していたように思います。
コンクールで使われたピアノは、とにかく音がクリアではあったものの芸術的とはあまり感じなかったのに対し、こちらのスタインウェイはクリアという面では少し譲るかもしれないけれど、大人っぽく懐の深いものがあり、演奏を聴くには好ましい楽器だったように思います。


かように反田さんは稀有な逸材には間違いないけれど、やはり気になる点もあって、その演奏は聴いていてなぜかしら気分的にピタッとこないことが多いのも個人的にはあって、演奏が見事なだけ、それがよけいにひっかかります。
いつもメガネレンズの内側にまで汗がポタポタ落ちるほどの熱演なんだけれど、こちらの耳に届いてくる演奏は情熱的というより説明的な立派さで、曲のディテールの処理や追い込み方にも、聴く者の心を掴んで離さないよう応えてくれとはいえないもどかしさがあり、自分の演奏能力の秀逸さを磨き抜いて披露することの方に興味があるのかな?という感じを受けることがしばしば。
そのまま一気に疾走し、雪崩れ込んでほしいようなところでも、強いて冷静なコントロールを入れ直したりするのは、ときに聴く側はシラケてしまうものですが、そんな期待に反する弾き方をするのが彼なりの別の意味のアピールなのか?

反田さんの演奏の特徴は、曖昧なもののないその引き締まった作り込みにあるようで、自らを律して日々修行に励む、道場の塾頭のような演奏というべきなのかもしれません。
あのヘアースタイルだけでなく、演奏も「サムライ」というわけでしょうか。
同時に、どんなに硬派な人でも、男性はたいてい一皮むけばロマンティックで、叙情性があり、女性とはまた違った繊細さやこだわりがあるものですが、そこが希薄に感じさせてしまうものを感じます。
例えていえば、彼女や奥さんが最もわかって欲しい気持ちとか訴えたいポイントを、どうしても受け付けきれず背中を向けてしまう彼氏や旦那さんみたいで、それがこのピアニストの欠けているところのように思うけれど、もう一回転して、今じゃそれが魅力となっているのかもしれません。

どうやら詩的な人ではないらしいと感じたのは、アンコールで弾かれたシューマン=リストの「献呈」や、グリーグの抒情小曲集から「トロルハンゲンの婚礼の日」などは、最後に歌心もあるんだよとアピールしたかったのか、歌い込みやため方などが少々やり過ぎでわざとらしく、曲のフォルムが崩れそうなところもあったりで、そのへんのバランス感覚についてはやはり疑問として残りました。

極論すれば、ショパンは美意識と洗練、センスとバランスの世界だから、それを備えていないとしっくりこない後味が残るのも納得できたようでもありました。
聴くところによればコンクール出場を念頭に置いて6年がかりで準備し、ショパンの作法を学んだというようなことも仰っていましたが、それでも、どうしてもショパンとは相容れない溶け合わないところがあるのは、これはもうどうしようもないことだろうと思います。

どの曲もまったく見事に弾かれはするものの、ショパンのあの高貴な香りとか、細緻な織物のような美、そこはかとないニュアンスなどがさほど聴こえてくることはなく、これを「ただ楽譜に書かれたものを立派に弾いただけ」と言うつもりはありませんが、反田さんとショパンとは、どんなに歩み寄ろうと教えを受け、努力を重ねても、これ以上のお近づきはムリという壁があるとしか思えません。
そもそもショパンを分かる人は、その点にさほどの努力は必要としないもので、本能的に自分の裡にある何かと照応して自然に理解できてしまうものという気もします。

それでも、マロニエ君はいまでも他の人の演奏と聴き比べてみても、あの中では反田さんが一番だったと思います。
それはショパンコンクールの意義が、ただ単にショパンを上手く弾くというだけでなく、プロのピアニストとしての実力や将来の可能性までもを見据えて評価するというようなことが言われているからです。

これから日本をはじめ、上位入賞者達によってガラ・コンサートのたぐいがあちこちで繰り返されるのでしょうが、1位の人も、2位の反田さんがあれだけの鉄壁の演奏をしながらいつも至近距離にいるとなると、優勝者としてさらにそれより上を求められるプレッシャーを思うと気の毒なような気もしなくもありません。