スターのつもり

いまどきの日本のピアニストのヘンな型破り路線というか、突飛な振る舞いについてはいろいろと思うところはありますが、時代も変わり、生き残りも厳しく、従来通りの演奏活動だけではダメだという現実があることもわからないではないし、保守的な音楽ファンには受け容れがたいようなことでも厭わずやっていかなくてはいけないということもあると諦めはつけています。

そのために、どんな手段を使ってでも売名に励むのも、もうそれはそれでかなり慣れました。
ひと時代前なら絶対あり得なかったような陳腐なことでも、今はそんな掟もなにも崩れ去り、なんでもアリなのでしょうし、次々に新企画を打っては、忙しく飛び回るチャンスをゲットした人が勝ちだということでしょう。

なので、少々のことではもう驚かないと腹を括っていたはずなのに、やはり目にすればストレスが胸の奥から湧き上がってくるような、嫌悪をもよおすようなものが次々に出現してくるのも事実で、どんなに頭を切り替えを試みようとも、現実のほうが常にそれをはるか飛び越えていくような勢いです。

あるイケメンピアニストと呼ばれる方がおられ(どう見てもイケメンとは思えませんが、そういうことになっているらしい!)、その演奏は何ら魅力のないもので、ピアニストとしてはせいぜい3流というところ。
こういう人は、演奏のみで身を立てていくのはまずもって難しいだろうと思いますが、だからこそよけいに、とんでもないことを思いつくものかもしれません。

この方が、芸能人に混じってバラエティー番組などいろいろとメディアに顔を出しているのはうすうす知っていましたが、やっていることは従来のピアニストとはかけ離れた暴走やうわべの笑い取りで、自身を異色で型破りなピアニストとして位置づけ、気取らない愉快なイメージで目立とうという魂胆がばればれ。
あるときなど、自身のリサイタルのバックステージにカメラを入れ、もう出番が近いというのに、直前まで熱中しているのは楽譜のチェックなどではなく、スマホのゲームというなんとも安っぽい演出。
やがて開演時間が来たと告げられると、仕方なくそれを中断して颯爽とステージに向かい、さてもバリバリと難曲を弾いて戻ってきてはケロリとしているという余裕のパフォーマンスで、これはもう笑いではなく、チケットを買って会場に足を運んでくださるお客さんに失礼としか思えませんでした。

さらに最近の番組では、東京の某有名ホールでのリサイタルの様子が放映されましたが、この方のコンサートの半分はお得意のトークなんだそうで、ステージに登場し、ピアノに近づいていく段階からそれははじまっていて、いきなりマイク片手にお客さんを小バカにしたような言葉を投げかけたり、おかしくもないギャグを次々にとばしたりと、ピアノ漫談かなにかを目指しているのかしらないけれど、その光景は一種異様なものでした。

この方は「イケメンピアニストで、トークが上手く笑いがあふれ、お客さんが楽しめる」ということになっているらしいけれど、マロニエ君に言わせると、芸人としてはまったくのシロウトなので、ただのえげつない言葉や態度の連発なだけで、ギャグとしてもすべりっぱなし。
それでもご当人は笑いを取ろうと必死に飛ばしまくっていますが、あまりウケているようでもなく、まったく笑いになっていない。

誰かの言葉ですが、「人から笑われるのは簡単でも、人を笑わすのは簡単なことではない」とは、まったくそのとおりで、笑いをナメちゃいけないし、プロの芸人さんたちはそのために日々どれほどの精進を重ねているかご存知ですか?と問いたくなります。
笑いを喚起するのは、ユーモアのセンスであり、着眼点の妙であり、人の心の綾とか隙間にスルリとうまく滑り込んで、スキッとしたオチがなくてはならず、強引に捩じこむようにして取る笑いほど見苦しいものはなく、却って辛い気分にさせられてしまいます。

むかしアメリカにVictor Borgeという人がいましたが、ピアニスト級の腕前のあるコメディアンで、今でもYouTubeなどでも多数、彼の見事なパフォーマンスを見ることができますが、ピアノはちゃんと弾けるけれど本物の笑いに徹しており、正に洗練されたプロの芸。
ピアノ一本で行かないなら、それなりのキッチリした修行を積んで、出直してほしいものです。

ちなみに、あれでよくお客さんも来るものだと思うし、一流ホールがよくぞこんな催しのために会場を使わせるものだという点にも驚きました。
テクノロジーの進歩には目をみはるものがあるようですが、文化の面ではことごとく本物が失われていくのは、なんともったいない無残なことかと思わずにはいられません。


ついでといってはなんですが、すこしだけ。
ショパンコンクール優勝のブルール・リウが11月に初来日して、N響とショパンの1番を演奏している様子が放送されましたが、個人的にあの時下した評価は覆るどころか、より一層深まるばかりでした。
コンクールでないぶん、より自由に弾いていたといえるのかもしれないけれど、マロニエ君の耳には、それは自由というより精気のない弛緩でしかなく、およそ魂が感じられないものでした。
いうまでもありませんが、これはべつに力強くバリバリ弾けということではなく、極上の音色と研ぎ澄まされた表現を駆使して、その人なりの最良の演奏を披露するという意味ですけれども、マロニエ君にはこの方の優勝というのが、ますますわからなくなりました。

本当は昔の巨匠のCDでも聴いてみようと思っていたのに、またこんなネタに時間を費やしてしまいました。