『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいのか?』(岡部玲子著)という一冊があることを知り、さっそくネットで購入してこのお正月にひととおり読んでみました。
版の問題は、ショパンを熱心に弾かれる方の間で長らく問題とされ、その違いやベストは何かを知りたいと疑問に対する、これはいわば解説書のようなもので、これが決定版という書き方はされておらず、あくまで弾く人が主体的に決めるべきと結ばれています。
著者の方の研究は尊敬に値するもので、価値ある一冊だと感じましたが、弾く人が主体的に選ぶには同曲異版を何冊も使い比べて自分なりの結論を出さなくてはいけないということでもあり、それはそれで大変です。
それでも、この本を読んだおかげで、自分が想像していたものの空洞部分を補填することができ、版の違いというのが実際どの程度のものか、あるいはどういう経緯でそういう事象に至ったか、よりくわしく知ることができたように思います。
それは「初版出版の経緯(出版された国による差異)」「ショパン自身によるレッスン中の書き込み等」「研究者やピアニストによる改変や実践的なアドバイスが後年付加されたもの」「自筆研究に基づく原典主義」などあれこれの要因があること、さらにはショパンの書き癖とか、版による表記方法の統一化によるものなど、あらゆる要素が絡み合っていることがあらためてわかりました。
率直な印象としては、どれが絶対ということもなく、常に疑問や曖昧さがつきまとうのがショパンの楽譜で、そこへ演奏者や時代の好みも絡んでくるわけで、無理にひとつの結論を出す必要はないというか、個人的には現状のままでいいんだろうと思いますし、同時にナショナルエディションが中心的権威を占めようとする現在の風潮には若干の抵抗を覚えます
マロニエ君も書棚を見ればパデレフスキ版、ウィーン原典版、ペータース版、ヘンレ版、ブライトコップフ版、音楽の友版、全音版、春秋社版、そしてナショナルエディションなど、曲によってなんの統一性もなく混在していますが、気分的(音楽的にというニュアンスも含んで)に落ち着くのは個人的にはパデレフスキ版です。
コルトー版はほんの少しはあるかもしれないけれど、多くは立ち読みするだけで、いいなぁと思いながら別のものを買ってしまうのは、おそらく価格的に割高だからというのもあるのかも。
さて…。
その上で、あくまで一介の音楽ファン、アマチュアのピアノマニアの戯れ言として、ご批判やお叱りを覚悟で勝手な言わせていただくと、この版問題は木を見て森を見ず的な、どこか本質が置き去りにされた印象を振り払うことのできないものだと長らく感じていましたが、今回この本を読了することでますますその思い強くするようになりました。
版による違いなんか無意味だ!というつもりは毛頭ありませんし、もちろん大切なことです。しかし、それに目くじらを立て大騒ぎしすぎる気がするし、それほどの差が果たしてあるのか?という思いはどうしても拭えません。
なるほど、簡単に答えが得にくいものであるだけに、学者や研究者がテーマとして取り扱うぶんには興味深いことだろうと思われますが、ショパンが生涯をかけて作り上げたあの圧倒的な美しい音楽は、そんな瑣末なことでは微動だにしないものであるし、しかも最新のものは、あまりに学術臭が強く(イメージですが)必ずしも最良だとも思えないのです。
この本によれば、ウィーン原典版やペータース版はすでに独自の新版を準備中なのだそうで、それはナショナルエディションへの異議ではないかとも思われ、却って期待させられるところです。
聴いていて音に違和感のあるものは、やっぱりシンプルに疑問を感じるわけで、仮に自筆譜がそうなっていたと言われても、さすがの天才ショパンだって、わずかなミスぐらいあるでしょうし、もし生きていたらヒョイと書き換えたりするかもしれません。
文章だって校正という作業があるぐらいですから。
最新版で弾かれたものには、以前は美しかったものが、あきらかに「美しくなくなっている」と感じる例をいくつも聴いてきたし、私はその自分の感覚をどうしてもないがしろにはできません。
一部の人達には、こういうことをことさらにこだわってみせる向きがあり、自分はその違いと重要性がわかるんだとばかりに、そういう人達の声というのは妙に強かったりするので敵いません。
ショパンの音楽は、版がどれであれ、あれだけ輝かしい作品が人類に残されたわけで、個人的にはそれで充分ではないかという気持ちのほうがはるかに勝ります。
現在、最新最良とされるエキエル版(ナショナル・エディション)でも、完全無欠とは思えないし、疑問点を断定するには降霊術でもしてショパン本人に聞くしかないようなことも含んでいるようで、ショパンの音楽を演奏する(あるいは鑑賞する)にあたって、そんな重箱の隅をつつくようなことがどこまで重大かと感じるわけです。
版による違いの例を挙げるとキリがありませんが、例えば「異名同音」として、ある版ではEs(変ホ)を、何版はDis(レ♯)と記されている云々、ショパンの自筆譜はどうなっていて、それも書き癖があって…等々。
それによって和声の意味が変わるなどといえば、音楽理論的に言えばそうなるのかもしれないけれど、実際の曲の中にあってそれがどっちであろうが、そんなことは大した問題とは思えないし、どうでもいいし、そんなことより心を打つ美しい演奏を求めるわけです。
まがりなりにもショパンの楽譜に接していると、そういう箇所は随所に出てくるものの、その表記のわずかな違いで弾き方や考えや表現がまったく変わってしまうなんてことは別にありません(プロの方がどうかはわかりませんが)。
個人的にはショパンを奏する当たって最も大切なことは、彼の音楽に対する美意識と趣味を理解することではないかと思います。
24のプレリュード第2番の左手の表記がどうだとか、4/4拍子か2/2拍子かといったことが例に挙げられていましたが、マロニエ君としてはそれは第1番の直後に来るこの曲を直感的に理解できる人なら、冒頭左の内声に意識をおきつつ右の孤独に満ちた旋律が決然と入ってくること、そうなると曲全体は4/4であれ2/2であれ、沈鬱さを込めてなめらかな流れで弾き進むのは必然であり、表示よりも感性が問われるところ。
むろん完全な音の違い(国内の楽譜にはときどきある)などは論外ですが、それ以外の真偽や経緯のわからない微妙なものが多くあるようだから、それはそういうものを含んでいるということでいけないのかと思います。
言ってしまえば、いい演奏のできる人はどの版をつかってもいい演奏になるでしょうし、その素晴らしさは版によるものではなく、演奏行為の深いところからくるものだと思うのです。