巨匠たちのショパン-2

シモン・バレル。
ロシアからアメリカに亡命したピアニストで、1947/1949年のカーネギーホールのライブですが、まず音があまりよろしくない。
昔から、ロシアのピニストは技巧が優先される演奏だったことを窺わせる演奏で、大半の曲は疾風のように早いテンポで弾き上げられていきます。
なんとか当たり前に聞こえるのは幻想曲やop.27-2のノクターンぐらいなもので、黒鍵や即興曲第1番などは、まるで一人レースみたいに極限的なスピードで、車だったらいっぺんでパトカーに赤色灯を回されるような、暴走運転的でこれはやり過ぎとは思うけれど、この時代の自由な雰囲気の中で、ピアニストが自分の個性としてそうしていたことはなんとなくわかるし、不思議にあまり不快感はありませんでした。
この時代は、40代のホロヴィッツなども同じステージに立っていたかと思うと、なんという時代かと思いますね。

ベンノ・モイセイヴィッチ
この人もロシア出身のピアニストで、一世を風靡とまで言えるかどうか、その正確なところまではしらないけれど、ともかく歴史に名を残すピアニストには違いなく、ラフマニノフを得意として親交もあったようです。
やはり当時としてはテクニシャンだろうと思われるし、随所にエレガントな表現などもあるものの、ショパンとしては全体に平凡、24の前奏曲などは詩情に乏しく聴こえるし24曲のキャラクターの弾き分けがさほど感じられませんが、スケルツォやバルカローレになると技巧がものを言うところもあるからか、まとまってくる感じ。
では、ただお堅く弾いているだけかというと、決してそうではないし繊細な部分もきちんとあって決して悪く無いんだけれど、なぜか気がつくと集中が途切れてしまうものがあります。
礼儀正しさみたいなものが全体を覆っていて、演奏から何か深く染み入ってくるようなものが薄いもどかしさがあり、ベテランピアニストが長年の演奏経験から熟練の手さばきを披露しているだけという印象を受けるのはマロニエ君だけだろうか?と思ったり。

アルフレッド・コルトー
20世紀前半の言わずと知れたショパン弾きの代表格。
音が流れだした途端に漂いだす強烈なニュアンスに惹き込まれ、ショパン演奏として一世を風靡したことに納得、その実像がありありと目の前に立ち現れてくるようです。
もちろん、しばしば言われたことで、あれ?っと思うところや、これはちょっとヘンでは?というところもあるけれど、でも、ところどころに「これ以外にない」と思わせる揺るぎない決定的な瞬間があって、聴き手はそれで完全にノックアウトされてしまう。
なにより心地いいのは、ショパンに揉み手して、忖度して、なにがなんでも歩み寄り、作品のご機嫌を取ろうとするのではなく、この人の主観が、精巧なパーツがピッタリと適合するように、作品と同化している、いわば借り物ではない点。
そのぶん溌剌として、確信があって、説得力が強い。

モーリッツ・ローゼンタール
コルトーより少し年長のポーランドのピアニストで、20世紀前半ショパン弾きといわれたひとり?
陶酔感にみちたショパンで、今日ではまず聴くことのできない主情が前面に遠慮なく出た演奏であるが、さりながら特異なことはなにもないという名演。
ひたすらショパンに忠誠を誓ったかのような演奏スタンスで、しかも本質的にもほとんど古臭さがないのは驚くばかり。注意深く、デリカシーに富み、それでいて非常によく歌い、様式感もしっかりしている。
ポーランド人ピアニストによるショパンとしては、現代のそれよりもよほど洗練された印象。ただし、都会的かというと必ずしもそれはなく、そこはコルトーが一枚上手かもしれないが、歴史的なショパン演奏としては一聴に値する美しい演奏。

ウラディーミル・ホロヴィッツ
聴き慣れた大戦以降の演奏ではなく、1930〜1936年の演奏であるために、ホロヴィッツとしてはとにかく若々しさが最も印象的に聴こえてくる。4曲のエチュード、3曲のマズルカとスケルツォ第4番だが、ホロヴィッツといえども、若い頃はこんなにキチンと弾いていたのかと思うほどオーソドックスな演奏で「らしさ」はときどき感じる程度、後年では彼の看板でもあったデモーニッシュな印象はさほどでもない。
ただ、その尋常ではない指さばきの確かさと輝きは、やはり桁外れのピアニストであることをいまさらながら思い知らされ、いかなる部分においてもなんの苦もなくサラリと乗り越えていける特別な技巧には、舌を巻くばかり。
ショパン演奏としてどうかということより、この天才の凄さにため息が出るばかりでした。
ふと、近代ピアニズムの夜明けは、この人からではないか?と思ったり。