つきあい方

ピアノの良し悪しに対する判断基準というのはいろいろあって、シンプルに言い表すことは難しいと思いますが、あえていうなら、ピアノはいい音質で、力強く、よく鳴るというのは、楽器としてのポテンシャルの基本だと思います。

それも側鳴りではなく、ピアノから離れても、さほど音量に変化のないような、音の飛行距離が長いという特質をもっていること。
弾いている当人は手応えがあって気分良く弾けているつもりでも、少し離れると一向に聴き応えのない、スカスカなピアノというのは経験的に少なくありません。

まずは、そういうピアノとしての健康でしっかりした声帯というかボディをもっていることと、そこに優秀でコントローラブルなアクションが備わっていれば、まずは合格ということではないかと思います。

広島製ワグナーピアノは相変わらず、よく通る音と衰えを知らない鳴りで元気満々ですが、強いていうならアクションの老朽化といった問題がないといったらウソになり、シングルスプリングのゆったりした反応や、消耗品の摩耗等によるとおもわれる注意深いタッチを必要とする若干のハンディがあり、新しいピアノのようにタッチも思いのまま弾力的に受け入れてくれるような甘えは通用しません。
それでもつい弾きたくなり、自然にワグナーへ吸い寄せられるのは、ウソやごまかしのない楽器だけがもつ魅力に満ちているからだと思います。

物理的/機械的な観点からいえば、これをある程度解消することは相応の手を入れれば可能でしょう。
交換すべき消耗品を取り替えて、本来の機能や感触を回復することは技術的にも正しいことで、マロニエ君も長いことそう信じてきましたが、このピアノの所有者である技術者さんはじめ、それに近い方の意見によれば、あまり細かいことに目くじらを立てず、古いものはふるいものとして、それなりに付き合っていく良さというのもあるというわけで、なるほど一理あるということに日々理解を深められたように思います。

車でもピアノでも、日本人は少しでも傷があれば修理に出すなど、ちょっとした不具合にも不寛容で、なんでもネガ潰しして新しくしてしまうことばかりに価値を置いています。
そこまでして、さてどういう使い方をしているのかといえば、車なら平凡な日常の買い物とか、子供の送り迎えとか、たまにドライブぐらいなもので、さほど完璧を要するようなことでもないことが大多数でしょう。
これは自戒を込めての話ですが、モノをそれらしく使い切ることなく、ただモノの段階で終わっているから、そういう意識の持ち方になるのだろうと思います。

はじめ、すぐには受け容れられないことでしたが、最近は「それはそれとして穏やかに付き合っていく」ことにも、得難い価値があり味わいがあることをしだいに理解できて来たように思います。
ここがあそこがとケチを付けるのは簡単ですが、そこばかりに意識が向いている間は楽しんでおらず、心は少しも豊かではなく、大袈裟に言うなら不幸な状態にあるわけです。

人間、長らくしみついた感覚やクセは容易に変えられるものではありませんが、私はワグナーピアノのおかげで、欠点にあまり目くじらを立てず、他に代えがたい魅力のほうへ意識をまわして楽しむということを、ほんの少しではあっても覚えたような、もっと大袈裟に言うと学んだ気がします。
しかもそれを覚えると、意外に楽になり、楽しさの比率も増えていくので、これは大事なことだなあ…とこの歳になって思っているところです。

もちろんワグナーピアノは借り物だから、マロニエ君の独断で勝手なことはできないという足枷はあるのだけれど、昔の自分なら早々に買い取るなどして、より良くするためと信じて、あれこれ手を入れて始終悩んでいたことだろうと思いますが、今の自分なら、かりに自分の所有であっても同様のスタンスで向き合うことができるだろうと、少し思います。

それに気づくのに、いささか遅すぎという感もありますが、遅すぎたとて気づかないよりはマシというもの。
本当に大事なことは何か?を静かに考えてみると、あれもこれも間違っていやしないか…と思われることのなんと多いことでしょう。
それに気づかせてくれた御方とワグナーピアノには、ひたすら感謝の念を覚えます。

「良いピアノはいろんなことを教えてくれる」というのは本当ですね。