ブックオフでたまたま目について面白そうだなと思い、『パリのエレガンス ルールブック』という一冊を読んでいるところです。
著者はジェヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーというニナリッチのオートクチュールサロンの支配人を務めた、服飾のエキスパートです。
内容は、パリのファッションのさまざまな約束事を平易な文体で書かれた本ですが、そこにはファッションだけではない、この花の都に流れる高度な文化やそこに暮らす人達の精神や価値観が垣間見られるもので、非常に面白いし、共感できることが多く、いちいち膝を打ち、ときにへぇと驚きながら読んでいるところです。
例えば、高価だという理由だけで、ドレッシーなアンサンブルにワニ革のハンドバッグを持っている女性を見るとがっかりするとあり、値段の高い爬虫類は、ほんらいスポーツや旅行の時に身につけるものであること。
つまりこの手の素材は遊びの時のくだけたものであって、午後5時を過ぎたら使わないものというような、しごく真っ当な(しかし多くの人が知らない)ことが書かれています。
読みながら、むかし母が嘆息していたことを思い出しました。
今ほど、きもの文化がまだ廃れていない時代、いざというときには女性は和服を着る方もまだ少しはいらっしゃいましたが、中年以上の女性の間で、なぜか大島紬が高級品の代表のようにもてはやされ、奮発してそれを買ったはいいけれど、そのお値段故にこれがよそ行きになってしまい、ほんらい染の着物を着るべき場面に、大島を意気込んで着ていく人が少なくないのは、なんとも片腹痛いとこぼしていました。
どんなに高価だろうと、紬というのはほんらい普段着もしくはその延長であり、それをあらたまった場面に着ていくなんぞ無知をさらすようなものというわけです。
普段にさり気なく着るからこその贅沢品であり、ブランド物の高価なジーンズをフォーマルな場に履いていくようなものでしょう。
決まり事というのは、それ自体が文化であり、それをよくわかった人がしっかりした土台の上に程よく崩しを入れるのは構いませんが、まったく無知で、値段だけに頼って間違ったことをやらかしてしまうのは滑稽ですね。
ほかにも、街中で白いバッグや靴を用いることの違和感、アクセサリーをつけすぎてクリスマスツリーのようになっている人、白髪を嫌がって毛染めしたものの、年齢を重ねた顔を真っ黒い髪が縁取ることのおかしさなど、尤もなことが次々に書かれており、いちいち取り上げているとキリがありません。
さて、パリに欠かせない概念として「シック」というのがあります。
シックとは、さりげない優雅さに欠くことのできない要素で、エレガンスよりも少々知性が要求されるもの、とあります。
シックを理解できるのは、すでにある程度の文化と教養が身についている人達で、生まれつき備わっている場合もあり、神の恵みで「美貌や財産とは関係がない」というようなことがはっきり書かれています。
おもしろいのは、そのわかりやすくかつ痛烈な例で、思わず声を上げて笑ってしまいました。
「ケネディ一家はシックですが、トルーマン一家はシックではありません。」
「ダイアナ元皇太子妃はシックですが、アン王女はシックではありません。」
「マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボはシックですが、リタ・ヘイワースやエイザベス・テイラーは、その美貌にもかかわらずシックではありません。」
とあり、まさに膝を打つようです。
これに倣っていうなら、マロニエ君が音楽でまず思う浮かぶのは、
「ショパンはシックですが、リストはシックではありません。」
「ブラームスはシックですが、ドヴォルザークはシックではありません。」
「スタインウェイやファツィオリはシックですが、ヤマハやカワイはシックではありません。」
「務川慧悟はシックですが、反田恭平はシックではありません。」
〜この調子で言い出すと際限なくありますが、ま、やめておきます。
とくに日本人ピアニストでは、シックといえる人を探すほうが難しいことに愕然としました。
いや、ピアニストにかぎらず、私から見るとあの小澤征爾でさえ、個人的にどうしてもシックとは思えません。
とりわけ近年の日本の音楽家は、才能や実力という点ではもはや相当なものをもっているにもかかわらず、多くがこのシックというセンス、もっというなら美や洗練に対する絶対音感が抜け落ちているから、それを技巧その他の「能力」で補填しているのだろうと思います。
これは、ほかのジャンルを考えても、残念なほど符合します。
それでいうと、自分で見たわけではむろんないけれど、少なくとも明治ぐらいまでの日本人は、いまよりよほどシックだったんじゃないかという気がしてなりません。