見えてしまう

前回に関連しますが、生のコンサートに魅力がなくなったのは、もうひとつ、時代との関わりもあるように思います。

たとえば、今の若手の演奏家。
演奏能力という点では、それはもう昔では考えられないまでに優秀で上手い人がずらりと揃っていますが、それはハーバードや東大卒の職業エリートのようで、シンプルに芸術家と思えるような人はほとんど見当たりません。
音楽のためにのみ献身し、聴衆のために全身全霊でもって演奏に挑み、ときには身を持ち崩すような人がどれだけいるか?といえば、正直答えに窮しますし、そこに時代の価値の変化を感じてしまいます。
自分の音楽的純度あるいは芸術性保持のためにコンサートの数を制限しているような人がいるでしょうか?

クラシック音楽の世界は、世界的に衰退が叫ばれているにもかかわらず、世の中は不思議なもので、コンクールで名を挙げたり、YouTube等で有名になると、有名人ブランドのレッテルみたいなものが貼られて、一転してステージの依頼が殺到し、いうなれば売れっ子芸者のようにひっきりなしにお座敷がかかるようなもの。

プロである以上、有名であるとか入賞歴ということも、ある程度は必要というのはわからないではないけれど、何事も度が過ぎるとおかしなことになり、その難関を通過できた一握りの人だけには、ネットでもテレビでもそれ一色となります。
こういう現象は、「これもご時世」と割り切って一定の理解はしているつもりですが、それでもやはり首を傾げてしまいます。
人は時代に背を向ける訳にはいかないから、全否定するつもりもありませんが、いわゆるほんらいの音楽家であるとか芸術家というのとは、かなり目指すものの違う、職業的成功者のようなものになっているようにも感じます。

こうなると、どれだけ深い感銘に値する演奏かどうかということより、どれほどの多忙に耐えられるか、どれだけ先々までスケジュールが決まっているかが成功のバロメーターとなり、それをクリアできる能力の持ち主が人がスゴイということになる。

また、レパートリーの増やし方にも、一定の見識とか節度のようなものがおよそ感じられないことが多く、能力にあかせて片っ端から弾いていくといった姿勢にも、どうしようもない違和感を覚えてしまいます。

いかに過密スケジュールの中、あらゆるレパートリーを携えて各地を駆けずり回るかの「体力・メンタル勝負」のような色彩を帯びており、そんなハードな活動の中で、たまたま自分の住む街のホールに来るからといって、それを素直に聴きたいというような純な気にはマロニエ君は到底なれないし、相手も生身の人間だから、実際に全力投球で演奏しているとは思えないようなものに何度も接した経験もあり、そんなギャラの荒稼ぎ旅のカモになんかなるものか!という気になります。

というわけで、マロニエ君は決して生演奏を否定するつもりはないけれど、従来のような気分でコンサートに行く気持ちにはなれないし、かといって上記のような新しいスタイルの演奏に無邪気に喜びを見出すまで、自分を変革することもできないでいるわけです。

そりゃあもし、今タイムマシンがあって、最盛期のホロヴィッツやグールドの演奏が聴けるなら、どんな無理をしてでも行きたいと思うし、ラフマニノフやショパンの演奏も身悶えするほど聴いてみたいです。
しかし、現在おこなわれているコンサートは、もし行ってもどういうものであるか、悲しいかなおおよそ見えてしまうのです。

コンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要することで、気軽に家にいるのとは違います。
時間に縛られ、それ中心に移動し、車を止めて、開演を持って、演奏中は身動きもせず、食事の時間も変わるし、あれこれ言い出すとキリがありません。
それでも行きたい気になるのは、マロニエ君にとってはワクワク感であり、期待であり、一種の高揚と勢いであるから、それが無いとどんなに指の達者な人であろうとわざわざ行こうという気にはなりません。
だからスピーカーの前が一番自由で快適になるんだと思います。