昨年6月から11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、旅立って行くと部屋がガランとしてしまい、寂しくもありますが、行き先は長年の知り合いであるし、意義のあるところへ行ったのだから不思議に前向きな気分です。
そもそも、ワグナーなきあとも自分にとっては分不相応なピアノがあって、それでさえ使いこなしているとはおよそ言い難い状況で、毎日ピアノに触れる平均時間でいうなら10分/日ぐらいでしょうか。
これでワグナーがあると、まったく触れない日がいくらでも増えて、今あるピアノにも申し訳ないというものです。
大人からピアノを始めた方でも、日々かなりの練習を課しておられる方が珍しくないというのに、これじゃあ楽器の良し悪しをどうこういう資格もありません。
我が家でピアノを弾くのは私だけなので、台数があるだけ各ピアノはより眠りに入るだけで、いくらピアノが好きでもなんだかひとりで欲張っているだけでは楽器にも申し訳なく、いい機会だったと思っています。
というわけなので今後、マロニエ君が新たにピアノを買うなんてことは実際にはまずないと思いますが、それはそれとして、このワグナー体験を経てますますピアノへの認識が変わったことは事実です。
もしも、なにかとてつもない無い間違いでも起こって、万々が一にもピアノを買うようなことがあれば、この先は迷いなく古き佳き時代のピアノを選ぶと思います。
音が出ると、まわりの空気がフワンと伸び縮みするような、あの感じ。
無理なく、太く鳴り、それでいて耳に心地よく、全身が美音に包まれるような、あの感覚を知ってしまうと、外観はどんなにピカピカでも生命感のない「ピアノのような音」が無機質に出てくる今どきのピアノは、もう欲しくはありません。
どんなに評判が良かろうとも、そもそもコストダウンされた素材で作られたピアノを、最新テクノロジーの力で遮二無二鳴らして、見た目も音も表面だけキレイなピアノでは、真の喜びや安らぎは得られない。
もちろん新しいピアノを全否定するつもりはなく、中にはまだじゅうぶんに素晴らしいものがあることもわかっています。
とくに均一で、ブリリアントで、整った、甘い音のするピアノ。
新緑のように若々しく、音の息の長さ(伸び)という点では新しいピアノに分がある場合もあるかもしれません。
さらに、精度の上がった、アクションがもたらす精緻な感触や自在感という点では、新品ならではのものがあることも認めます。
しかし、音を出すだけでも嬉しくなるような、その響きを聴くだけでも深いものに触れているような、その楽器の長い生涯の一時期に関わっているようなピアノの魅力というのは、今のマロニエ君にとっては、何物にも代えがたい魅力があることを知ってしまったような気がします。
ピアノが指のオリンピック競技の訓練のためなら、その訓練に適した道具というものもあると思います。
そんなほんわかしたピアノを使うのは適していないだろうし、それだったら新しい量産品でガンガンやるのがいいのかもしれませんが、楽しみに徹するなら好きなピアノに触れる喜び、美しい音と響きに身を浸す快楽を得たいなら、そういう楽器を選ぶしかありません。
ピアノをオールドバイオリンに喩えると、必ずといっていいほど「ピアノとバイオリンは違う、わかってない、比較することはできない」と正論らしきことをまくし立てる方がいらっしゃることもよく承知しています。
簡単にいうと、バイオリンは弾いて鳴らして熟成させて完成され、耐久性という点でも息の長い楽器、対するピアノは弦のテンションが高く消耗品で新しい物がいいという考え方ですが、マロニエ君はこれには真っ向から反対です。
バイオリンが楽器として長寿であることはそうだとしても、その性能を維持するために、常にどれだけのメンテや維持管理(そのためのコスト)を必要としているか、それでも未来永劫ということはなく、数あるストラドやグァルネリとはいえ、将来は必ず寿命が来ると言われています。
ピアノも同様で、それぐらいの維持を心がければ、いいものなら100年経ってもどうってことありません。
それでも大型犬より小型犬のほうが長生きするように、平均寿命はピアノのほうが短いかもしれませんが、その程度の差だと思います。
お借りしていた広島製ワグナーも60歳ほどでしたが、弦もハンマーもオリジナルで、アクションだけは少々の消耗感がありましたが、鳴りっぷりという点では、現代のピアノを打ち負かすほどで、大事に使って、ときどき手を入れてあげれば100年なんて軽く行けそうな気がします。
もともとの品質にもよりますが、ピアノの寿命を必要以上に短く言うのは、新しいピアノを売る必要のある企業の思惑が相当入っていると思われますが、まあメーカーも慈善事業じゃないからそれもわからなくはありません。
ただ、古くていいものを慈しむように使うというのは、本当にいいものだし、心が豊かになることがよくわかりましたが、それはワグナーピアノのおかげでもあると同時に自分が歳をとったからなのかもしれません。