移転先から

WAGNER PIANOが我が家から某音楽サロンに移転して、その後どうなったか。
結論から先にいうと、こちらのオーナー(Mさん)は、この方がこんなにも喜ばれることがあるのか!と驚くほどの深い喜びようでした。

Mさんは、さる高名なピアニストのお弟子さんのひとりですが、近年はどういうわけかほとんどご自分がピアノを触ることはなくなったとご本人から聞いていました。
正直、それがなぜなのかはわからないし、その理由を聞くのも躊躇われたので、そこは敢えて触れないで過ごしていました。

ところが、WAGNERが移転することになってからというもの、それ以前とはあきらかに様子が異なっているようでした。
早い話が、このピアノをとても気に入っておられるということになるのですが、そこにはただ単にピアノが気に入ったということとも少し違って、この方を長らく覆っていたいろいろな要素が、雪が次々に溶け出すように剥がれ落ちていったようでした。
WAGNERが大きなきっかけとなって、再びピアノを弾こうという意欲がよみがえってきたことはまずもって何よりでした。

今年亡くなられたお母上は、ピアノに触れようともされなかったMさんの姿を見ながら、何度かピアノを弾いてほしいと言われたそうですが、それでも頑として弾かれることはなかったらしいので、余人には窺い知れない何かがあったのでしょう。
ピアノを弾くことに対する扉はかたく閉ざされてしまって、それが実に16年ほども続いたというのですから、驚くほかありません。
その開かずの金庫みたいな心の扉を、WAGNER があっさり開けてしまったわけで、これはマロニエ君の想像もはるかに超えるものでした。
まるで人が変わったように毎日ピアノの前に座られ、あれこれの楽譜を取り出しては弾いてみている!と電話口の向こうで言われるのを聞きながら、当初は多少弾かれるきっかけにもなればいいな…とも思ってはいましたが、予想をはるかに超える反応にこちらのほうが驚いたぐらいです。

いまさらですが楽器の力というのは如何に大きいかということを思い知らされました。
それは単に音がきれいだとかよく鳴るとかいった表面的なことだけでない、もっと人の心の奥深いものを引き寄せるような「何か」の力が作用しているに違いありません。

このピアノは、以前にも書きましたが、マロニエ君の知人のピアノマニアの方が広島県内で売りに出されているのをネットで見つけられ、すぐに新幹線に飛び乗って見に行かれたことが事の始まりでした。
私もWAGNERというのは、後年の浜松の東洋ピアノのものをぼんやりと認識していたぐらいで、ここから泥縄式に広島で製造された元祖WAGNER PIANOのことを調べて知りました。

その方は、このピアノの鳴りに感銘を受け、手に入れる前提で、整備のできる工房調べなどまでされたようですが、別の有名手作りピアノのOH済みというのが出てきて、結局そちらを買われることになり、結果としてWAGNERはFreeの状態となりました。
私も迷いましたが、あまりにもWAGNER PIANOに無知で、見に行くにはあまりに遠いので正直まごつきました。
古いピアノの得意な技術者さんに電話したところ、それだったら某さん(現在の所有者である調律師の方)がWAGNERのことはご存知ということで、その方に尋ねたら「広島製のWAGNERはそれは素晴らしいピアノです。今風の甘い音ではないがものすごくよく鳴る。買われるならおすすめします。」といわれました。
そして、「もし誰も買い手がないときは自分が買います!どんな状態でも構わない!」といわれたことが決定的となり、それからひと月後ぐらいだったでしょうか、ついにWAGNERは関門海峡を渡って福岡にやってきたのでした。

運送会社の倉庫内で数日にわたり整備をされ、驚くばかりに朗々と鳴り響いたことは以前にも書きました。
この調律師さんの見立てでは、日本の隠れた銘器であるにもかかわらず、ブランド力がないから下手をすると廃棄されるおそれがある…ということでピアノを守るためにゲットされたようで、とくに置くあてもなく(このあたりがこの技術者さんの面白いところなのですが)、結果的に我が家でしばらく拝借することになり、今だから本心をあかせば、ゆくゆくは買い取らせていただきたいと思っていました。

それが思わぬところから現在の展開になり、話はトントン拍子に進み、結果的に新たな住処を得たというわけで、かなり数奇な運命を辿っているピアノだといえそうな気がします。

Mさんは、少し前から恩師が所有されるドイツ製の有名ブランドのピアノを買わないかと打診されたことがあった由ですが、どうしてもそういう気になれずにお茶を濁していたのだとか。
「WAGNERがやってきたのは、自分にとってそういう運命だったから」というのはいささかこじつけの感も免れませんが、とはいえ、いわゆる「赤い糸」みたいなものがあったのかもしれません。
まるで何かがはじけるように気分が変わり、これまでの十数年とは別人のように毎日弾いておられるとのことで、もう少し早ければお母上も喜ばれただろうにと思います。

WAGNERが運び出されて数日後のある夜電話があり、鍵盤蓋の隙間からえんぴつを落としてしまったとのこと、取り出そうと鍵盤蓋を外そうとしたが外れないということでした。それは当然で、WAGNERの鍵盤蓋はちょっと特殊な作りで、ヤマハカワイのようには外れないので、仕方がないからドライブがてら取りに行ってあげました。
そのついでに私がちょっと弾いてみることで、Mさんは少し離れてWAGNERの音や響きを耳にされることになったのですが、このピアノは距離をおいてもほとんど音量が変わらず、聴く側に回ってあらためてWAGNERの底力を理解され、さらにさらに惚れ込まれたようでした。

まさか、これほどのことになるとは思いませんでしたが、結果から見て、これはその方にとっても、ピアノにとっても、地域にとっても、そしてもちろん所有者の技術者さんにとっても、第一発見者のTさんにとっても、最良の結果だったように感じられ、我ながらなんと上手い思いつきだったかと嬉しく思っているところです。

これから先、このWAGNERがどんなストーリーを紡いでいくのか、楽しみです。