3人のベテラン

最近聴いたピアニストの中で、その名声にかかわらずあまり感心できなかったお三人の印象。
近頃はできるだけマイナスなことを書くのはよそうと心がけていますが、これだけはどうしても書いておきたいと思って、敢えてキーボードに向かってみることにしました。

▲マレイ・ペライアのショパン(CD5枚組)
以前買って、聴いて、好みじゃないから、ずっと棚の隅にしまっていたのを何気なく引っ張りだしてみたもの。
内容はざっというと、2つの協奏曲、2番/3番のソナタ、バラード全曲、op.10/25のエチュード全曲、4つの即興曲、舟歌、幻想曲、その他ワルツやマズルカなど。
これほど迷いなく観光用絵ハガキみたいに弾かれたショパンという点で首尾一貫しており、ちょっと他では聴けない。
まるでお値段だけやけに張る、内容よりパッケージに凝ったお菓子の詰め合わせのようで、デパートの贈答品売り場の空虚な世界に連れ込まれたよう。
ショパン独特の美意識も、憂いも、陰影も、洗練も、詩情も、気高さも、なにひとつ受け取ることのないまま、ひたすらに、つやつやしたきれいな音粒の羅列が終始続くのみ。
まるで電子ピアノの自動演奏機能のスイッチを入れたようなショパン。

これほど「きれい」にすればするだけ「真の美しさ」からは後退していくという見本のようで、がんばって5枚聴き通したけれど、もうこの先聴くことはないだろう。バッハでさえ同様の印象だったことを思い出す。
彼の最も好ましい演奏は、若い頃に残した、イギリス室内管弦楽団とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集だけで、あれ以外のCDはいつ消えても構わない。

▲バリー・ダグラス(NHK-BS 2022年5月東京)
シューベルトの即興曲D899からc-moll/チャイコフスキーの四季より6月と10月、ムソルグスキー「展覧会の絵」。
ずいぶん昔チャイコフスキー・コンクールに優勝した人で、音楽家にはないタイプのハンサムなんだろうけれど、肝心の演奏にコンサート・ピアニストとしての華がない人。
冒頭インタビューで思ったほど老けてはいなかったこととは意外だったけれど、第一曲のシューベルトからして、やはりこの人らしいというか、あれこれの言葉を探すのが面倒なので一言で終わらせてしまうなら、にぶく垢抜けない演奏。
その点では、チャイコフスキーのほうがさほどこれを感じずに済むが、それは作品の性格のせいと思われる。
後半は「展覧会の絵で、まったく個人的な趣味だけれど、演奏会のメインプログラムにこの曲をデンと据えるようなピアニストがそもそも好みではなく、なにもかもがセンスが合わない。
それにこの人は、チャイコフスキー・コンクール優勝後に演奏開始したころから、この曲や四季を弾いていたようで、あれから40年近く経つとういうのに、新しい境地は開けなかったのか?かと思ったり。
実は、この大曲を聴くのは苦手なので、今回もこれは視聴を遠慮した。

▲マウリツィオ・ポリーニ ベートーヴェン最後の3つのソナタ(2019年ヘラクレスザール)
ポリーニを初来日時から熱狂とともに聞いてきた世代からすると、虚しいばかりの演奏だった。
彼が演奏を本格始動させた1970年代、ペトルーシュカやショパンのエチュードのレコードで世界のピアノ界は激震が走った。なにしろその驚愕の技巧とギリシャ彫刻のような演奏は「完璧」の名のもと、有無を言わさず聴くものをなぎ倒した。とくに実際のコンサートで接する演奏は、レコード以上に燃焼感の加わった圧倒的なもので、大ホールに鳴り渡るピアノ一台とは思えぬ充実した音響の洪水、それを成し遂げたあとの汗みずくの様子など、ピアニストなのか剣闘士なのかわからない、ヒーローそのものだった。
そんなポリーニがわずかな衰えを見せ始めたのは、アバドとベートーヴェンの協奏曲全曲を録音した頃だったと記憶する。
もちろん人はだれでも歳を取るのだから、それ自体は自然なことだが、彼の場合、歳をとり技巧は衰える対価として、より深まった味わいとか芳醇さといったものが出てくることがなく、その解釈はあくまでも若いエネルギーを前提とした70〜80年代そのままで、ただ身体と技巧の衰えばかりが目立ってしまうのがやるせない。いつまでも若いころと同じファッションを身に纏うと、より老いが際だってしまうように。
せっかく後期のソナタを弾いても、これらの作品が内包する精神性の世界へ引き込まれることがなく、ただがむしゃらに、ピアニスティックに、そして若い頃よりももっと咳込んだように前へ前へと、強引に(ときに粗雑に)突き進むばかりで、まるで中期のソナタのように聴こえた。
この人は、この歳になって、いま何を見ているのだろう?

パッセージはろれつが回らず、音は分離が悪く、ペダルは混濁し、気が急くのか必要な間もとらずあちらこちらで暴走気味。
正確無比というポリーニのイメージにはあるまじき、非常に粗雑で荒れた演奏になってしまっているのは、聴いている側の気が滅入ってくるようだ。
それでも時折、ポリーニ独特の重厚にしてクリアな響きが蘇って往時を偲ばせる瞬間もあるにはあったことは付け加えておきたい。

会場は彼の録音の大半が行われてきた、お気に入りのヘラクレスザール、ピアノはファブリーニ、…なんだけど、そんなに無理して若ぶらなくてもというような、バイデン大統領にも感じるけれど老いを隠そうとすると、よけいに老いが目立つものだと思った。
そんなポリーニを視覚で象徴するもの、それは昔は椅子の脚を切り落とすほど着座位置が低かったのに、今はお気に入りらしい赤ラインの入ったランザーニの椅子を、ずいぶん高く上げて演奏しており、これもどうにもしっくりこない。