WAGNERの一夜

我が家で1年近く弾かせていただいたWAGNER PIANOは、次の場所(某音楽サロン)に移ってはや数ヶ月、そこのオーナーの方の心を鷲掴みにしているようです。
大げさではなくこのピアノとの出会ったことを「人生が変わった!」と真顔で語られるほど。

音楽に関わることは続けておられましたが、聞けばもう長いことご自身でピアノに向かうことからは遠ざかられていました。
その理由はくわしく知りませんが、WAGNERが来てからというもの、人が変わったように毎日のようにピアノに向かわれているらしく、本物の楽器というのはそういう力があることをストレートに感じさせられます。

先週のこと。
そのサロンに、所有者である技術者さんと、サロンオーナー、さらにはWAGNER PIANOの第一発見者である某氏と、私の4人で食事をしつつ楽しい宴席が設けられました。

夕方のスタートでしたが、あっという間に深夜になるほど、瞬く間に時が過ぎていきました。
WAGNER PIANOがなければ、まず同席することはなかったであろうこの4人は、縁結びであるWAGNERを背に、さまざまな話に興じました。
食事やおしゃべりが楽しかったのはもちろんですが、なにより強烈な印象として残るのは、やはりこのピアノの類まれな素晴らしさに触れて、もう十分にわかっているつもりのはずだったのに、またもその新鮮な魅力に圧倒されました。

やわらかな響き、立体的に立ちのぼる馥郁たる音が、何の無理も苦労もなく、音の強弱にかかわらず、豊かな陽光のように部屋中を包みます。
さらに、以前にも書きましたが、部屋のどこにいても同じ音量で聴こえてくるばかりか、すこし離れたほうがより美しく鳴ってくるあたりは、ただもう驚くしかありません。

こんなピアノは、少なくとも日本製に限定するなら、どこを探してもまずないだろうと思います。
素晴らしいピアノの条件とは、卓越した設計、最良の材料、熟練の技、コスト度外視の作り手の志など、いくつもの条件がバランスよく整う必要がありますが、それだけなら昔のピアノ作りはそういう好条件を満たしたものは、今とは違いそれほど難しいことではなかったようにも思われますが、では同時代に入念に作れられたピアノがどれも素晴らしいのかといえば、さすがにそれはないだろうと思います。
おそらくWAGNERの素晴らしさには、つくり手さえ予期しなかった何か…、ある種の偶然も味方しているのでは?と思うほど、格別なものがあるように思います。
その格別さがどんなものであるかを文章にできたらいいのですが、なかなかそのような文才もないのがもどかしいばかりです。

本などを読んでいると思い起こされるのは、昔のピアノは今のように甘さやブリリアントな味付けはされず、線の太い力強さがあり、ありのままの素朴で正直なピアノの音をもっているようです。
とくに戦前のピアノにはそういう傾向があったように思います。

変な味付けがないぶん、音色や表現についてはもっぱら演奏者に委ねられており、だからこそ弾く者の想像力やアイデアを要求させるのだと思います。
そういう意味では、現代のピアノは基本的な音にすでに色や味がつけらており、それが演奏の可能性をある程度規定してしまうようでもあるし、音色変化に対する感覚が鍛えられないのでは?という一抹の不安も感じます。

ここにはもう一台ヤマハの古いG3があるのですが、そのピアノとのあまりの違いには…おののくしかありませんでした。

私は正直にいうと、プロ/アマを問わず、自分のセンスに合わない演奏をあまり長時間聴かされるのは、おそらく普通の人の何倍も苦手だと思います。それは同意できない弾き方もあるけれど、音もよくある一般的なピアノの場合、化学調味料まみれのようなウソっぽい音が神経に障ってストレスとなり疲れるのです。

ところがWAGNERの音や響きは、まったくその逆で、その音に身を委ねている時間が喜びであり、少しでも長く聴いていたような気になります。
音の出方も、ピアノからこちらへ向かって矢が飛んで来るようなものではなく、そこらの空気が瞬時に音に変わってしまうようで、そういう状態に自分自身が体ごと包まれていることが、えも言われぬ快感なのです。
所有者である技術者さんが「できるだけたくさんの方にこの音を聴いて欲しい」といわれるのは、あらためて納得です。

やわらかいふくよかな音というと、こじんまりした小さな音であったり、輪郭のないぼやけた音であったり、激しい曲に向かない小粒なピアノといったような、おとなしいピアノだと思っている方は少なく無いのではと思いますが、そういうイメージがいかに誤りであるかがWAGNERを聴いたらいっぺんでわかるでしょう。